「キリストの祈りのように」詩篇35篇(2015年11月22日 )

※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。

序 : 表題に「ダビデによる」とある。背景はサウルに妬まれ、命を狙われて洞窟に逃げ延びていたころと言われる。

本論1 神の助け
(1)主の使いによる助け
1~10節までは、実際の戦闘状態を思わせ、(3節)投げやりに対して、上半身を守る盾や全身を守る大盾を取って主に戦ってほしいという願いや網や穴という罠から守られ、彼らが自滅するようにという願いだ。
35:1 【主】よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。
35:2 盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。
35:3 槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。
35:4 私のいのちを求める者どもが恥を見、卑しめられますように。私のわざわいを図る者が退き、はずかしめを受けますように。
35:5 彼らを風の前のもみがらのようにし、【主】の使いに押しのけさせてください。
35:6 彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、【主】の使いに彼らを追わせてください。
ここで、二つのことに思いがとまりました。一つは3節の後半で、「「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ』と」と言う言葉で、「(マタ8:9)ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と主の権威と言葉の力に信頼した百人隊長の言葉を思った。
もう一つは「(5節)【主】の使いに押しのけさせてください」と「(6節)【主】の使いに彼らを追わせてください。」つまり天使の助けを願っているところで、詩篇には、この2か所と先週学んだ34:7にしか出て来ない言葉だ。実際逃亡中のダビデには何百人かの部下がいたものの、サウルの大軍から守られる都度、神の助けが軍隊に勝るものであることを体験してきた。

(2)神の使いたち
Ⅱ列王6:13にはアラムの王が預言者エリシャを捕えようと、馬と戦車と大軍を送って夜に町を包囲する場面が出て来る。
朝、若い者がエリシャに、「ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言うと、
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

捕縛された時に、ペテロが思い余って大祭司の僕に撃ってかかり、片耳を切り落とした。その時、「(マタ26:52・53) 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」とおっしゃった。イエス様は、神の軍勢によって戦うことが出来たが、あえて父なる神のみ旨、贖いの業のために自分をお捧げになって、そうなさらなかったのだ。

「自分と、自分に味方する者を守り、敵対する者を滅ぼしてください」という祈りは全ての人が神に愛されているという平等性からは、自分勝手に思えて来るが、もし仮に神であり、人であるお方であるキリストが祈ったなら正当だ。神に味方する者を守り、神に敵対する者は滅ぼされてもしかたない。ダビデとキリストとは大きな隔たりがあるが、神に近ければ近いほど、このような祈りが正当となる。
34:7 【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される
私たちが困難に会う時に、もし神の軍団が守ってくださることを、この目で見ることが出来たら、どんなに大きな励ましとなることだろう。「(内村)私たちも天の万軍と共に戦うのであって、信者一人で世界に勝つはこのためだ」と言っている。この霊的な目を開かせていただきたい。
エペ1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

(3)自滅の原理
35:7 まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。
35:8 思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように。
ここには、自滅の原理が記されている。神に敵対する者、キリストに敵対する者、キリストと共にある者に敵対する者はとげのついた棒を蹴ることになる。
Ⅱペテ3:9「主は、…あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」しかし、その愛の神に目を背けることそのものが自滅を生み出すのだ。「(内村)神は悪人を罰するに耐えず、罪をして罪を罰したもう。罪の必然の結果は滅亡である。死である罪の恐ろしさはここにある」私たちはニネベの滅びを願うヨナのような感じ方をする者だが、神様の立場になったら、私たちは分かるのかもしれない。

マタ23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
息子が放蕩したままで、帰って来なければ父親はどうすることも出来ない。

35:9 こうして私のたましいは、【主】にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。
35:10 私のすべての骨は言いましょう。「【主】よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」
先週「砕かれなかった骨」が、十字架ですねをおられなかったキリストの預言となり、死にさえ勝利して救い出されたことを見た。死んだ者さえ神はよみがえらせることがお出来になるのだから、どのような悩みや、貧しさの中にいる者をも救い出すことが出来ないことは決してない。

本論2 裁きを主に委ねる
(1)愛は恐れを消す
35:11 暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。
35:12 彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。
35:13 しかし、私は──、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。
35:14 私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。
ここには、飼い犬にかまれたようなダビデの心情が描かれている。例えばサウル王に対してであるなら、彼は、いわば王様のためにこそ自分の命を捧げて戦ったのであり、妬みによる疑惑さえなければ、王にとって最も素晴らしい助け手でもあったのだ。
私たちは、誰かを心から愛し、その人の幸せのために祈っているなら、どんなにその人が自分を責めることがあっても、怖くはない。
詩17:2「私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。」と公正な裁きをなさる神様の前で良心に恥じ入る者がないからだ。だから、私たちは愛し、祈る。どんな人に対しても。それが私たちが恐れに打ち勝つ秘訣だ。
神は誰にどのように攻撃されても恐れる者はない。なぜなら全ての人を愛しておられるからだ。恩を忘れられた人の悲しみは、神の悲しみでもある。ああエルサレムエルサレムです。ロマ5:8…「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(2)裁きを主に委ね
35:15 だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。
35:16 私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。
35:17 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。
35:18 私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。
ダビデは若いころに父親の羊の番をした経験がある。その時、ライオンが羊を奪い、彼はライオンやクマと戦って羊を奪い返した経験を持っている。「(17節の)ただ一つのもの」とは命、魂のことだ。今、自分の命と魂は、敵によって略奪されている状態にある。かつてアブラハムが、その親族を略奪者の手から奪い返したように、ダビデものちにアマレクから親戚の者たちを奪い返す。イエス様はこう言われた。
ヨハ 10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

(3)キリストの十字架
35:19 偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。
35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。
35:21 彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ」と言います。
35:22 【主】よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。
35:23 奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。
35:24 あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、【主】よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。
ここは実戦の場と言うより、天の法廷に訴えているようなダビデの姿を見る。キリストの場合、実際に6度も裁判の席に立たされ、ほとんど、弁解のようなことはなさいませんでした。無言であられたが、それは、いわゆる黙秘権を使用して、不利な発言はしまいとするのではなく、父なる神の御心に従い、全てを委ねておられたのだ。
だから、もはや自分が、王として担ぎ出される心配がなくなった時から、自分が神の御子キリストであることを明確に証言された。
Ⅰペテ2:22「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

本論3 キリストの苦しみにあずかる
(1)キリストの苦しみにあずかる
35:25 彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ」と。
35:26 私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。
この詩を「ダビデによる」ではなく「キリストによる」として読んだらどうだろう。キリストはこのように祈らなかった。裁判の席では沈黙されたり、敵の滅びを願うこともなさらなかった。しかし…例えば、35:7の「まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。」と言う言葉や、35:11の「暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。」と言う言葉、35:21の「彼らは私に向かって、大きく口を開き、『あはは、あはは。この目で見たぞ』と言います。」という言葉は(マタ26:61)…「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」という表現や、キリストが神の子であることを認めると、(マタ26:65)「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。」と言った大祭司と重なります。
つまりダビデはキリストの御苦しみの疑似体験を旧約時代にさせられていたと言うことだ。持ち物、家族を失い、偽証によって苦しめられ、正しい裁きを求める様子は、ヨブと重なるし、10節の「骨」は34章で見た「損なわれない骨」25節の「われわれは彼を飲み込んだ」という表現はそこで見た、死からのよみがえりのしるしとなったヨナにも重なりますし、またエレミヤをも連想させる。つまり主にある預言者たちの多くがキリストの十字架の苦しみの疑似体験をさせられてきたということだ。
新約時代はどうかといえば、(マル10:38)イエス様が「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」と言って弟子たちの受難を予言され、現に弟子たちが殉教していったこと、また、ペテロやパウロが「私たちもキリストの苦しみにあずかれる」(Ⅰペテ4:13)とか「キリストのための苦しみをも賜った(ピリ1:29)」と表現していることから、私たちもまた、キリストのみ苦しみにあずかっていくことが記されている。

(2)苦難の意味
34:19「正しい者の悩みは多い。しかし、【主】はそのすべてから彼を救い出される。」
と言う言葉があった。クリスチャンになれば苦しみも増すとも言えるかもしれない。クリスチャンになると悩みがなくなるわけではない。ただ悩みの試練の種類と意味は違うはずだ。未信者の試練は神に会うための入り口だ。しかし、信者の試練は神に相応しい者にされるため神の聖さにあずかるための神のみ業だとも言える。どちらも神が人を呼ばれていることに違いはない。
確かに正しい者の悩みは多い。しかし、そのすべてから救い出されるのだ。
Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
またペテロはこう言う。
Ⅰペテ4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(Wさんのこと)

(3)共に誇るべき方は
35:27 私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる【主】は、大いなるかな」と。
この詩篇は、神に弁護、反論、判決を求めるような形になっているがそれぞれ9、10、18、27、28と今までの体験から、この困難に置いても救い出されるだろうという希望と感謝が記されている。
そして、戦っているのは自分だけではなく、それが少数であっても共に戦っている人たちに目を向けている。エリヤは戦いに疲れ果て、孤独の中にいたが、神は「(Ⅰ列王19:18)「…わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」とエリヤを励ました。
ダビデもまた、今自分の配下にいる者たちはわずかであっても、実際に神に頼る者たちの決して少ないない事(18と27節)
しかもそれは自分を誇るためではなく、自分を救い出してくださった神をほめたたえるためだ。ここはダビデの人生で最も大切なこととなる。たくさんの恵みにあずかる者の危険、霊的な指導者の危険はここにある。
35:28 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。
パウロの言葉が思い浮かんでくる。
Ⅰコリ1:31「まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」
Ⅱコリ11:30「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」
(この時、パウロはダマスコの町の城壁の窓からかごでつり降ろされ、アレタ王の代官の手をのがれたことを回想している。)また、自分が病に苦しみ癒しを求めた時のみことば、Ⅱコリ 12:9・10「…しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)