「主の与えてくださる道」 詩篇25篇 (2015年07月05日)

序 : 文章の最初の字がヘブル語のアルファベットが並んでいるいわゆる「いろは歌」。 (9つある) 覚えやすい。「祈り」とか「道」とか「罪」とか「契約」とか「苦難からの救い」とかいろいろな要素が印象に残る詩だが、私は「主の与えてくださる道」と
題をつけた。流れとしては、20~24に至る流れ程の明確さはないが、24篇で「誰が主の山に登り得ようか」と問われ、それを受けているかのように25:12 「【主】を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」とつながりを感じることも出来る。この詩篇の背景は25:7 に「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。…」とあるので、ダビデの晩年しかも、この危機感はアブシャロムの反乱の時を連想させる。(小畑) 

本論1 導きを求める祈り(1~7)
(1)敵の前での信頼(1~3)
25:1 【主】よ。私のたましいは、 あなたを仰いでいます。
25:2 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
25:3 まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。
2節に「恥を見ないようにしてください」とあり、このまま敵が、自分たちに勝利をすれば、恥を見ることになると感じている。敵が勝ち誇る。
ダビデには長子アムノン、次男キルアブ、三男がアブシャロム、四男アドニヤ、五男シェファテヤ、六男はイテレアムとそれぞれ違った母親を持つ子どもたちがいた。(Ⅱサム3:2~5)そもそも多妻が罪だし、問題の根源でもある。三男のアブシャロムにはタマルという美しい妹がいたが、長子アムノンがタマルを犯してしまうという、異母兄弟ゆえの事件があり、2年後アブシャロムはアムノンを殺し、3年間の逃亡生活があり、ダビデ王は家来ヨアブの助言でアブシャロムのエルサレムへの帰還を許すものの、アブシャロムは王には会わず、引きこもり状態になる。さらに2年を経て、王と面会するが、4年後謀反を起こし、ダビデがエルサレムを追われて逃亡するという流れ。クーデターによる内輪もめというだけでなく、相手は自分の息子だ。誰がトップに立つかをこの世の権力争いの構図で多くの人たちは見ていて、神の民イスラエルとはいえ、「何が神の御心か」を問わずに、昨日までの腹心の部下だった者たちもゆえもなく裏切る。このまま敗北すれば、ダビデの立場、だけでなく、ダビデの信じて来た神の御名さえ辱しめられる。「汝の神はいずこにありや」と言われてあざけられることは苦痛の極み…私たちのために十字架にかけられたイエス様は「もし神のお気に入りなら自分を救ってみろ」とののしられた。裸にされ、死刑に処せられ、さらしものにされる。これ以上の恥があるだろうか。
私たちはこういう時に問題だけを見つめてしまうが、ダビデは1節にあるように「【主】よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」「(小池)あなたに我が魂を捧げます。」そして25:3「まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。」と今までの事を回顧しながら信仰告白をする。
「ロマ 10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」パウロがッ言った彼、というのはキリストのこと。パウロは続けて10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。」この信仰と現実とのギャップ、緊張の中で(新注)」一時的には失望に終わるように思えても。最終的には勝利を与えられることを信じてダビデは契約の箱をエルサレムに置くよう命じ、再び礼拝の日が与えられると信じて都落ちする。死んだように思えたキリストがよみがえる。

(2)真理の小道(4、5)
25:4 【主】よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
25:5 あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。
ダビデが王として立てられたのは神様のご計画だった。しかし、それはどのように展開していくのか、晩年の弱さを覚え始めた彼が、自分の歩むべき道を求める。ここに記されているのは「あなたの道」で「私の道ではない」「my way」ではない。「(NIV)your way」神様が、私たち一人一人に備えていてくださる、道がある。追われて道に迷う。息子との決着をどうつけたらよいか、人生の道がどうなっていくのか。小道は複数形なんだそうで、(キドナーは)正しい決断、良い物と悪い物とを見分ける感覚、そして、救いの神を一日中待ち望んでいる。
ヨハ 14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」
一人一人の歩むべき道がある。それは一人一人違う。しかし、イエス様は父なる神の御許に来るのはイエス様という道を通してなのだとおっしゃった。「(小池)あなたの真理(まこと)に私を歩ましめ」真理である神のことば、イエス・キリストこそ道である。道は人が歩いて初めて出来るもの。イエス様はご自分の道を歩まれた。私たちもまたキリストに似た者とされて、キリストの歩まれた道を歩んでいく。それは神が私たちをご自身に相応しい者にしようとあえて与えてくださる道であり、それは私たちにとって時に大きな試練となるが、ダビデがひたすら信頼したように、神をひたすら信頼し続ける、道なのだ。

(3)罪の赦しの憐れみ。(6、7)私の若い時の
25:6 【主】よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。
25:7 私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。【主】よ。あなたのいつくしみのゆえに。
ダビデには、心に浮かぶ大きな罪があった。主に憐れみを乞いながらも、今の時の苦しみは、この罪の罰ではないかとさえ思う罪もあった。また25:11では「【主】よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」とある。若い時の罪は記憶にも強い印象をもって残るもの。「アウグスチヌスは、「告白」で、赤子の時からお腹がすけば泣き叫び、兄弟が母に抱かれて嫉妬し、少年時代に他の家の梨の実をかすめ取り、悪事を楽しみ、青年時代は色欲と名誉欲の走狗(そうく)となって」と。ダビデもこの度の苦難は身から出た錆、(小畑)」アムノンが異母兄弟のタマルを犯したのは、自分が、部下の妻との姦淫の罪を犯した後だった。一つの罪は、それだけに治まらず、いろいろな波紋を広げる。
罪責は時が過ぎれば解決するというものではない。被害者が時を経て死んだとしても、自分の心の傷は癒されない。(キドナー)」 もし祈りを自分の正しさに土台を置こうとすれば、とても、勝利を望みえない。誰にもそんなことがある。土台は、神様ご自身の憐れみや慈しみだ。それは永遠から遠迄変わらずにある。「(LB)お見逃しください。ああ主よ、あわれみと赦しの目で、永遠の愛と恵みの目で、私をご覧ください。」
「イザ43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」「十字架上の盗賊と同じ砕けた心(小池)」
ロマ 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

本論2 神の助けとガイドによって
私たちの救いと聖めは、この主の慈しみのご性質にかかっている。
25:8 【主】は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。「(LB)喜んで正しい道を教えてくださいます。」「(NIV)he instructs 」インストラクターが必要。
(1)道を示す(9、10)
25:9「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
25:10 【主】の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」
この主にのみ頼る心こそ、心の貧し者であり、頑張って強くなっていくのではない。弱さを知らされ、主に頼らざるを得なくなることこそ必要なのだ。
詩篇51:17 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
「(口)へりくだる者」「(LB)謙遜になって主のもとに帰る人に、主は最高の道を教えて下さいます。」山登りでも。特に危険な地域では、ガイドが不可欠だろう。「どん底を自覚した砕けた魂。これを体現なさったのがキリストだ。(小池)」
「(LB)その道はどこもかしこも、主のいつくしみと真実の香りが漂っています。」
 もう一つは、「契約とそのさとしを守る者」。それは遜り続けることを意味している。
キリストの救いを盾に、罪に溺れる人は、親の愛を利用するような甘えん坊。一方的な愛によって結ばれた者が、相手の会いに甘えるのではなく答えようとして生きる事、
ダビデの時代には、シナイ契約としての律法、神の言葉によって神の御心を求めていく生き方。

(2)罪を赦す恵み
25:11 【主】よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。
「(小池は)聖名のゆえにこそ、創造の秘儀のゆえ、神の愛のゆえ、…人間のどん底の事態において…憐れみは…もうこちら側をくよくよするを要しない。もし、なお自分を責め、自分を顧みているならば、それは、却(かえっ)て不信というものである。(小池)」「わっちゃったごめんなさい」と言い、お母さんは赦してくれて、ゴミ箱に捨てたのにそこから、皿を持ち出して泣く娘。「 (小畑)山のように見えだす大きな咎を、神の赦しの海は飲み込んでくださるに違いない。」また、たくさん赦された人がたくさん愛するように、十字架によって赦されているという土台を忘れなければ、罪深さを知っているということは、大きな感謝イエス様への大きな愛となってパウロのように身を結んでいくだろう。感謝と喜びのためには、自分の罪深さを知っていることは大切だ。十字架を疑えば不信と言うことになるのだろう。

(3)「私の目はいつも  
25:12 【主】を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
25:13 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。
25:14 【主】はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
25:15 私の目はいつも【主】に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。
私たちはいつも岐路に立たされ、選ぶべき道を選択しなければならない。しかし、主を恐れる者、「(LB)主を敬う者。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。」「(LB)神様の祝福の中に住み、…」この世界の中で…。「(口)さいわいに住まい」「(文)平安(やすき)にすまひ」「(岩)地を取得する」
そして、親しくされる。(14)「【親しみ】は【秘密】【はかりごと】【友情】(改定標準訳)とも訳される。「(LB)…神様はそのような人とだけ、秘密の約束をかわされます。」
ヨハ15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
Ⅰコリ 2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。」また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
ヤコブがラバンに騙された時、それが神さまから出たことであるとわかったと思う。彼は昔兄をだましたから。ヤコブにしかわからなかったと思う。神様との交わりは神様とその人にしかわからない面を持っている。
「(25:15の)網に足を絡めているのは、狩の罠にはまった獲物のようになってしまい、身動きできない状態。人性の突然の出来事(新注) 十字架に打ち付けられてしまったキリストが父を見上げるまなざし、殉教者ステパノの天を見上げる涼しいまなざし(小畑)だ。「(LB)私を救い出せるのは、主お一人だからです。」

本論3 救いを求める祈り
(1)苦悩の中で
25:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
「(LB)主よ早くおいでになって、あわれみをお示しください。私はすっかり打ちひしがれ、手も足も出ずに悩んでいます。」「(口)ひとりわびしく苦しんでいるのです。」
「御顔を向け」てください。怒りの顔ではなく、憐れみの顔を。
25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。「(LB)かかえている問題は、だんだん手に負えなくなるのです。」「(口)わたしの心の悩みをゆるめ」「(文)わざはひより脱(まぬ)かれしめたまへ」
25:18 私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。
「(LB)この悲しみに目を留め、この痛みを感じ取り…」「(小池)覧(みそな)わし給え」「(NIV)take away all my sins」「悩みや苦労を取り除いてくれ」と言うのではなく、全ての私の罪を取り除いてくれと言う。悩みや苦労の根本にある罪。その願いに答えてくださったのがイエス様。イエスにおいて全てがしかりとなる。
25:19 私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

(2)信頼と祈り
25:20 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。
「(LB)敵の手中から奪い返してください。ああ主に信頼したことがむだだったなどと、決して言わせないでください。」「(口)あなたに寄り頼んでいます。」「(NIV)rescue me」子どもが、狭い壁の間に挟まったりすると自分の力ではどうすることも出来ない。レスキュー隊の助けが必要。神のレスキュー隊
ここでも「恥を見ないようにしてください」とあるが、2節でみたように、ただ自分が恥を見るということだけでなく、「お前の信じている神様はどうした」と言われるような心もある。
モーセがはただ辱めを受けるだけでなく、神の御名が辱しめられることを気にした。神様に意見を言うみたいな。
(民 14:4~19)カナンの地を偵察した民たちの不信仰を見て、【主】がモーセに「彼らを滅ぼして、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」と言うと、モーセは【主】にこう言う。「もし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』…あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
25:21 誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。「(NIV)my hope is in you」「(口)誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように」「(文)
完全(またき)と正直(なほき)とわれをまもれかし」待ち望むのは忍耐が必要だ。あきらめてはいけない。現実と祈りの違いの中で、願い望みつつ熱心に待つのだ。(キドナー)

(3)共同体として
25:22 神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。
「(LB)解放してくださると期待します。」この最後の節で、ダビデの祈りが個人から公の祈り、神の国の共同体への祈りとなる。私の悩みは神の民、信仰者の悩みに通じ、人間の悩みに通じるのだ。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)