「御救いの喜び」 詩篇21篇 (2015年05月03日)

序 : 前回詩篇20篇を学んだ時に、20篇は、今日、読んだこの詩篇21篇とセットになっていると言うお話をした。戦いの前の勝利祈願の礼拝が20篇、そして、戦いが終わると、戦勝感謝の礼拝がささげられた。それがこの詩篇21篇だ。私たちも一日の戦いの前に礼拝をささげ、戦いを終えて感謝の礼拝を捧げる。そういう日々でありたい。そして、夕べには、勝利を得て、感謝の礼拝を捧げることが出来れば、幸いだ。

本論1 王の信仰と勝利
(1)勝利の喜び
「指揮者のために。ダビデの賛歌」この前書についても前回見た通り、口語訳の方が分かりやすい。口語訳では「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌」となっている。新共同訳も「指揮者によって・賛歌・ダビデの詩」となっている。
戦いは終わり、神への礼拝がささげられる。特に戦いが圧倒的な勝利に終わった時は、王は自分の力を誇示し、民は王を崇め祀ると言う風になりやすいところだが、前回見たように、王は神を見ている。そして、民は神を見ている王を見る。神と王を見ている。王の上に王を支配しておられる神がおられるのを感じ取っている。それが理想的な、支配者と民との関係だ。夫婦の関係、牧師と信徒の関係だ。素晴らしいことがあった時に、大きな勝利を得た時に、共に神を見上げるのだ。それを神は祝福される。

21:1 「【主】よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。」
血なまぐさい、戦闘があったのだ。命がけの戦いだった。どんな優れた武将も、神の御守りなしに生き残って戻ってくることは出来ない。しかし、明らかな、明白な神の助けと見守りがあった。それを民たちは神の御救いと表現した。

 私たちも御救いといえば、キリストの御救いにあずかった者だ。本来なら、死に定められても仕方のない者、神様から地獄に落とされても仕方のない者、悪魔との戦い、罪との戦いに自分一人で戦っても、あるいは民たち全ての力を持ってしても、悪魔にも、死にも打ち勝つことは出来ない。しかし、神が王であられるキリストを与えてくださって、キリストが先立ちとなって戦い、勝利してくださった。死からよみがえらせてくださった、父である神の御力をキリストが喜び、そのよみがえりをたのしまれた。王が喜んでいることを民たちも心から喜んでいる。「(共)喜び祝い…喜び踊る」「(LB)狂喜することでしょう」

喜ぶ者と喜ぶのは、そこに神の御救いがあったから。私たちも神と勝利されたキリストを見つめるのだ。
「(ヘブル12:2) 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

(2)王のビジョン
21:2「あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。」セラ
前回見た、(詩20:4) では「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。」と祈ったのだが、その王の願いどおりになった。「(共)拒まず」「(LB)望むものをことごとくお与えになったからです」「願い:依頼(新注)」

ライフというコント番組に、「平成の指示待ち妖怪」と言うのが出て来る。平成生まれの若者は支持されれば出来るのに自分から何かビジョンを持って事を行えないという皮肉がそこにある。ダビデ王は民たちの前で戦いの前に作戦を信仰的な言葉で語ったのだろう。王はそのように神を見上げてビジョンを持っている。
1963年8月28日のリンカーン記念堂でのキング牧師の有名な説教も思い出す。「I have a dream 」すべての人は平等につくられというアメリカ独立宣言が真の意味で実現する社会を、黒人と白人が仲良く共存できる社会を、子どもたちが肌の色ではなく人格で評価される未来を、私にはそういう夢があると語っています。(私には夢がある103~105頁)。イエス様はビジョンも使命も思いと言葉と行いとが一つの方であり、それらが私たちに愛として注がれている。
イエス様は弟子たちにこうおっしゃった。ヨハ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」つまり、王には指導者には、しっかりと神と結びついている、神を見つめていることから生まれるビジョンが必要なのだ。

(3)純金の冠を被らせるために
21:3 あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。
戦いを終えたダビデを神が迎えて、冠を置かれるという絵だ。ロトたちを救い出すためにケドルラオメルとそれに組する王たちと戦ったアブラハムを、いと高き神の祭司メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って迎えるという場面を連想させる。

創14:19「彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」

詩篇20篇の7節で、敵が戦車と馬を誇っていたことから、アモン人との戦いが想定されている。アモン人は戦車と馬を誇っていた。(Ⅱサム10章には)アモン人の王の代替わりを巡って、悔やみに行ったダビデの部下たちが、ひげを半分そり落とされ、衣を半分に切られて尻あたりまでにされて、辱しめられるという事件があった。ダビデは戦車兵七百と騎兵四万をほふり、将軍を打った。ラバの町を攻め取った時のことが次のように記されている。
Ⅱサム12:30「彼は彼らの王の冠をその頭から取った。その重さは金一タラントで、宝石がはめ込まれていた。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持ってきた。」

本論2 キリストにある支配の確立
(1)私たちを迎えてくれる神
キリストは十字架の使命を全うされた後、死からよみがえらされ、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださる。そして、私たちも、この世における戦いを戦い終えて、神に迎えられる。パウロはこう言った。
Ⅱテモ 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。私たちはパウロのように、勇敢に戦っているとは言えないかもしれない。走るべき道のりを走っているかどうかも問わなければならない。しかし、それでも、結婚を待ちわびる花婿のように、放蕩息子を迎え入れる父のように、胎内の子のために、産着を縫い、靴下を編み、おむつをそろえて待つ母親のように、神は待ち構えて、迎えてくれる。創造の初めに、耳には妙なる音楽を、目には素晴らしい光景を、渇きには白雪をいただく峰より注ぎだす流れを用意してくださったように、神は 私たちのために新天新地を用意してくださる。(マイヤー)

(2)永遠の支配
21:4「彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。」
ダビデが神にいのちを請い求めるほどの激戦だった。生死の境をさまよう程の緊迫感。があったのかもしれない。(小畑)そして、勝利を得た。「(共)願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世よ限りなく加えられた」「(LB)彼の命は永遠に限りなく続くのです」「とこしえまでの長い日々を与えられました。」というのは、王に対して良く使われる言い回しでもある。日本人も君が代の意味を考えてみても、万歳を三唱する。万歳も万に歳だから、永遠にという意味だ。ダニエル書にも「王よ。永遠に生きられますように。」とか、ライオンの穴から出て来たダニエルが、駆けつけた王に向かって「王さま。永遠に生きられますように。」と呼びかける場面がある。
 しかし、ダビデ王が真の王であられるキリストを予表していることから考えて、神の約束としての神の国の限りない支配をくみ取ることも出来る。

Ⅱサム7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
つまり、やがてメシヤによって始まる、もう私たちの時代においては始まっている神の国の支配と、やがてキリストにある者に与えられる永遠の命の恵みを読み取ることも出来るのだ。

(3)キリストの栄光
21:5 御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。「(文)彼に衣(き)せたもう」「(文)幸いなる者となし」「(共)栄えと輝きを賜る」
「(LB)主は彼に名誉と名声を与え、威光と尊厳とをまとわせました。」威光、尊厳といえば神の属性だ。
錦織の優勝は、錦織の栄光であるとともに、チャンコーチの栄光ともなる。

2010年の大晦日にNHK教育テレビで放映された「バクマン」という30分のアニメを13本続けて見たことがあった。漫画家を目指す少年が主人公の少年が、漫画を描いては出版社にもって行く。出版社には担当の編集者がいて、厳しい評価をくだす。それでもがんばって挑戦し続けるうちに徐々に漫画は上達する。編集者はヒットをだせる漫画家を探していて、もしそういう逸材を見いだして世に出せば、自分の栄誉になる。だから厳しくしながら、彼らを本物の漫画家に仕立て上げていくと言うものだった。
 わたしは、半日アニメを見ながら詩篇89:20・21のみことばを思い浮かべた。
89:20 わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。
89:21 わたしの手は彼とともに堅く立てられ、わたしの腕もまた彼を強くしよう。
神のみ手はダビデという逸材によって堅く立てられる。神は彼を通してご自身の力を豊かに発揮する。そして、神の腕もまたダビデを強くする。神さまに「こういうやつが現れるのを待ってたんだ」と言われるような人。
究極は、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と父なる神に言われたイエス様だ。
ヨハ 13:32「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」これは十字架への道を歩まれることを表している。
黙5:12では、十字架への道を歩まれたキリストがほめたたえられている。「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』」

本論3 主の御顔を仰いで
(1)主の御顔を見つめて
21:6 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
「(文)聖顔(みかお)の前の歓喜(よろこび)をもて、楽しませたまえばなり」「あなたの顔(からの)喜びに彼をひたす (岩)」「(共)御顔を向けられると彼は喜び祝う」今、世界卓球をやっていますが、卓球にしても、戦いの合間に、タイムアウトの時などに選手がコーチと顔と顔を合わせて話し合う。あるいはあるいはフィギアースケートにしても、はじめと終わりに、コーチの顔を見ながらその言葉を聞く。私たちの戦いもその合間合間に神の御顔を仰ぐ。そこに笑顔があれば素晴らしい。人生の戦いを終えた時にもキリストの御顔を仰ぎみて、その時、キリストも私たちも笑顔であればどんなに素晴らしいだろう。
「(LB)主の前に立つことの喜びが、いつまでも薄れないようにしてくださいました」
21:7「まことに、王は【主】に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。」「信頼し」の原義は「大地に横たわる。休息する。依存する。(新注)」「(LB)躓いたり、倒れたりすることは絶対にありません。…神様の不変の愛に頼り切っているからです」

(2)キリストによる裁き
21:8「あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを見つけ出します。」
ここの「あなた」は主ととっていいだろう。8~12は会衆が神の支配の約束を、王の支配と重ねて語っている。祭司や預言者によって歌われたと思われる。「(LB)主を憎む者を一人残らず探し出します」パウロはこう言った。「肉の思いは神に対して反抗し、神の律法に服従出来ない。神はそのような者をそのままに放置されることはない。丘の陰、草むらに隠れている敵を捜し出し…生々しい古代の戦いが繰り広げられたように。イエス・キリストのご支配もまたパウロがテサロニケに宛てた手紙のようになる。「Ⅱテサ1:7…主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」

(3)神の完全な支配
21:9 あなたの御怒りのとき、「はげしき怒りによりて(文)」彼らを、燃える炉「火の入ったかまど(岩)」のようにされましょう。【主】は御怒りによって「(岩)あなたの顔の現れる時に」「臨在の時」「(LB)主が姿を現されると御前から出る激しい火が、」彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くすでしょう。
21:10「あなたは、地の上から、「実を地から(岩)」彼らのすえを滅ぼされましょう。また、人の子らの中から、彼らの子孫をも。「彼らの種を(文)」も」。
21:11「彼らが、あなたに対して悪を企て、たくらみを設けたとしても「陰謀を謀っても(岩)」、彼らには、できません。」「(LB)この連中は主であるあなたに陰謀をたくらんだからです。しかし、そんな計画は万に一つも成功するはずがありません」「成し遂げることは出来ない(新注)」
十字架の陰謀は成功したかに見えた。しかし、神はそれをも用いて、私たちの救いを全うされたのだ。
21:12「あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦を張って彼らの顔をねらわれるでしょう。」「(LB)主の矢に狙われているのを知り、慌てて向きを変え、一目散に逃げるでしょう」「逃げる前に回って、その青ざめた顔に真正面から矢を射る」戦慄的表現だ。
ヘブル10:12・13「…キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。救いと裁きと戴冠は表裏一体なのだ。

結び 
21:13「【主】よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」「(LB)この讃美をお受けください。御力をたたえているのです。私たちは向かうところ敵なしの主を記念して、歌を書きとどめます。」最後は祈りと讃美。人間は視界から消え、神を崇め感謝するだけ。「ただ神にのみ栄光あれ(小畑)」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)