「わが神、わが神」 詩篇22篇 (2015年05月24日)

2015年05月24日
「わが神、わが神」 詩篇22篇

序 : 今日は、キリストの十字架の預言としてイザヤ書53章と共に、最も有名なこの詩篇22篇を読む。(JFDクリーチによると)キリストの十字架預言の旧約の数は13か所、その中の8か所が詩篇で、さらにその中の5か所がこの22篇だと説明する。私は7か所が重なっていると思う。
「(1節の)わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と言う言葉はイエス様が十字架の上で発した言葉だ。「(7節の) 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。」とは十字架の周りの人たちの描写、「(8節の)「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」も十字架を取り巻く祭司長や律法学者たちの声として」「(15節には) 私の力は、土器のかけらのように、かわききり」と言う言葉はキリストの「わたしは渇く」と言った言葉、「(16節の最後には)…私の手足を引き裂きました。「(口語訳では)私の手と足を刺し貫いた」で、釘で手足を打ち付けられたキリストと重なる。「(18節の) 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」は十字架の下で兵士たちがキリストの着物を取り、下着をくじ引きにしたことと重なる。「(最後の31節は)主のなされた義を」と言う言葉が出て来るが、原文ではこの詩篇の最後の言葉がヘブル語で「なし終えた。」という意味の言葉で、イエス様が十字架上で「完了した」と言った時、この言葉を言ったと思われる。
 とは言え、聖書の預言は「これから何年後に救い主が十字架にかかって死にますよ」と競馬の予想のように未来を占っているのではない。この詩篇はこの詩篇として独立したダビデの体験の詩なのだ。ダビデの苦難と祈りと救い、そこから見えて来た勝利と展望、それがそのまま、キリストの十字架と復活の勝利、福音の世界宣教によって重なって歴史の中で真実となっていったということなのだ。一人の体験が他者の体験と重なる。これが今日のテーマだ。

本論1 苦難の中の祈り
(1)わが神、わが神
「指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌」「暁の雌鹿」という当時の歌があり、その旋律でこの詩篇が歌われたらしい。(講解)」
22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」

 ダビデは一度ツィケラグで処刑される危機があるが、全体の切羽詰まった危機と救いの祈りはやはり、サウルにいのちを追われている頃の彼の体験と重なる。こんなにうめいているのに、神が助けて下さらない。神が遠く離れているように、また自分が神に見捨てられているかのように感じる。それでも『わが神、わが神』と叫んでいる。真の神以外に私たちは拠り所とするものはない。この方が、遠く感じられても、この方に捨てられたと感じても、それでもこの方にすがる以上のものはない。

 以前、RCスプロールという人のメッセージで考えさせるメッセージがあった。彼は、私たちが救われると言うのは何から救われるのかと問い、罪からか、死からか、地獄からか、と問いかけたあと、私たちは神から救われるのだと言った。つまり、「死」と言うのも神が定めたこと、永遠の死とか裁きというのは神によって、神から引き離されること。神の怒りから救われるのは同じ神の愛によるしかない。神と私たちは、切っても、切れない関係だから、捨てられても離れない。(小畑)
 イエス様はアラム語を使われた。「(マタ27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。)」この見捨てると言う言葉が、詩篇ではヘブル語の「アーザブ」と言う言葉。イエス様が使われたのは(アラム語の)「サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。
 (先週マザーテレサの本の話があった) 理由のわからない苦痛ほど耐えられないものはないと言われる。ヨブのよう、なぜ神がこの状態から助けて下さらないのか。それでも悩みによって信仰が失われていない。
22:2「わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」昼も夜もうめき祈っている。

(2)他者のために
「(22:3)けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
こういう、状態の中で、自分の状態から目を話して、神ご自身だけを見上げ。もがけばもがくほど、ますます混乱してくる。いっそ、もがきをやめて、神を見つめると、神にはたくさんのもがくような祈りだけではなく、神をほめたたえる聖徒たちの(教会の)讃美がささげられている。それは絶え間なく、無数にささげられており、いわば、神の住いとなっている。なぜそのように、讃美が無数にささげられているのか。それは神により頼んだ者たちが、救われる経験をしてきたからでもある。
Ⅱコリ1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
 ヨブは苦しみにあった時にはまさか、自分の苦しみが、世界中の苦しむ人の励ましとなるということは全く考えることが出来なかった。私たちの苦しみは他者の救いと慰めに通じ、神によって、そのように神に用いられる。

(3)先祖たちの信頼
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
かつて、エジプトで苦役をなめたイスラエルは神に叫び、その叫びは天に迄届いた。
「(出2:23)…イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。」「(出3:7)【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」「(出3:9)見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。」
22:5「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」だからあの出エジプトの出来事があったのではないか。
「(LB)助けを求める人々をただの一度も失望に終わらせたりなさらなかったのです。」出エジプトの出来事だけでなく、世界の全ての、真実、神様により頼む者の祈りを聞かれ、信頼する者を失望させないお方ではないか。
「(パウロもペテロもⅠペテ2:6)選ばれた石、尊い礎石としてキリストに信頼する者は、決して失望させられることがない。」と記している。
親に信頼する子供を失望させる親がいるだろうか。全ての神に信頼する者たちは神への賛美を捧げることになる。それだけでなく、ダビデ自身の今までの歩みにおいてそうだったではないか。ゴリアテへの勝利、いのちが守られ続けて来たこと。
「(ヘブル12:1) こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

本論2 受難
(1)虫けらのように
「(22:6)しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」ダビデが逃亡生活中は、「あいつらはサウル王から反逆者と見られて、逃亡中のお尋ね者じゃないか」と思われた。ナバルもそうだった。人間として取り扱われていない。「(LB)同国人ばかりか全人類からもさげすまれています。」「人間の屑、民の恥(新共)」「(岩)ひとの笑い草で、民の軽蔑の的」「虫は棒で突っつかれ、蹴られ、踏まれ、唾をかけられる(小畑)」「(イザ 53:3)彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。キリストへの人々の悪口が重なる。クリスマスの時にキリストが神の座を捨てて、私たちと同じ人となられたことは、私たちがナメクジのようなものになるのと同じことだと言った。キリストは人となって私たちの罪を追って身代わりに死に、悪魔と死に対する勝利を取られた。(Lancelot Andreus)という人が、このことことを釣り針に餌としてつけられた虫に例えている人
「キリストは我々の贖罪の大事業を成し遂げるために、神の性質を人の性質という虫の中に覆い隠したもうた。大きな水中の蛇レビヤタン、悪魔は、キリストの人間性という虫を飲み込まんとして、キリストの神の性質の針に引っかかったのである。かくて針はその顎を突き刺し、はなはだしく引き裂いた。キリストを滅ぼさんとして、かえって自らの王国を壊滅させ、その威力を永遠に失ったのである。(Lancelot Andreus)」
22:7「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。」
22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」「(LB)神様に助け出されるところを見せてもらおうじゃないか。そうしたら信じてもいいぜ」「(マタ 27:41・42)同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。』」 (一昨年K塾を訪れた日の朝、十字架の箇所を読んだ。)

(2)母の胎から
22:9「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。」
22:10「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。」「(口)母のふところにわたしを安らかに守られた方です。」「足場を補強(小畑)」 「(岩)あなたの上に私は胎内から投げ出された」
神はエレミヤに対しても、「…胎内に形造る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」と語り、ダビデも詩篇139篇で「(詩139:13)…あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた。」と言っている。パウロも同じ信仰を持っていた。胎児は母親に全く他に依存している。ベツレヘムの2才以下の男の子が殺されたが。赤ちゃんはそんな命令も知らず、ある意味心配もしない。
ヨブも10:8で「あなたの御手は私を形造り、造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。」とダビデのように訴えている。

(3)肉体的精神的苦痛
11~21は肉体的、精神的苦痛の描写と祈りが記されている。読むことをしないが、「私は、私を(1~2、6~8、12~18)」という言葉と「あなたは(3~5、9~11、19~21)」という言葉が交互に喘ぐように繰り返されている。体と心とは切り離せない関係にある。
そして、自分の命を狙っている敵を獣に例えている。
「(22:12節の)ではバシャンの雄牛、バシャンはガリラヤ湖の東方(ゴラン高原を含む高原)地帯で、力強い肥えた牛の産地だ。「(LB)雄牛のように獰猛」
「(22:13節の)引き裂き、ほえたける獅子、「(詩17:12でも)あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。」とあった。
「(22:16節では) 犬に例えられている。当時の犬は野放しの飢えた群れで、死体をあさり、人を襲って不潔、狡猾、卑屈、貪欲、獰猛の代名詞だった(小畑)「(LBでは)群がる野犬のように」と訳されている。
「22:17節では)その敵は弱り果てた私をながめて、見ている。「(LB)ではほくそ笑む」悲惨な光景を楽しんでいる。人間がゆがんでしまっている。
だから心と体は、(22:14節にあるように)「水が皮袋から流れ出て袋がつぶれるように、勇気と力とが体から抜けてしまっている。(講解)」心はろうのように溶け、(22:15節にあるように)「土器のかけらのように、かわききり、無力で死に行く人のようになっている。そして、(22: 18節にあるように)人が死ぬと持ち物を分配する。
22:18「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
所有物の分配。教会を閉じる時、その財産は誰のものになるのか。「(ヨハ 19:23) さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。」
そのような中で、19,20,21節で転回点となる、「主よ」という呼びかけに変化(講解)し、緊急な叫びが連続する中、21節の終わりで、「あなたは私に答えてくださいます。」
と一縷の光が見えている。「(LB)そうだ神様は私に答えて、助けだしてくださるに違いない」となっている。

本論3 神の国の進展
(1)嘆きは讃美に
さて、22節から、嘆きは讃美に変わる。夜が明け、朝の光に包まれる。耐え、祈り抜いた後に見た光だ。夜は過ぎ去り神の御顔は現れた。
22:22「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」この言葉はヘブル2:12で 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」と引用されている。ただ、苦悩と祈りが讃美に変わるだけでなく、ダビデの詩的な祈りが、兄弟たち、会衆と讃美が、神の民全体でなされるように広がりを見せている。神の恵みは、神に信頼する全ての人に注がれるのであって、神への賛美は、神を信じる全ての人と共になされるのだ。信仰の共同体、共有ということだ。
22:23「【主】を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。」
22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。「(LB)主は私の絶望の底からの叫びをさげすまれなかった」「(LB)背を向けて立ち去りはなさらなかった」
「 22:25() 大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。」「賛美すら私からではなく、神から出ている。讃美の根源もまた神からのものだと突き止めた。(小畑)」

(2)十字架
ダビデは危機一髪のところで死を免れて救われると言う経験を何度もしている。しかし、十字架に向かうキリストの場合はどうだったのか。
井上薫先生のメッセージを思い出す。キリストが十字架に向かわれる時、父なる神に、「あなたは、ゴルゴダの丘の上で、兵士が私の手にくぎを打ちつけようとする時、アブラハムがイサクを献げた時に、アブラハムを止めてくれたように、彼らを止めてくださるのですか。」すると父は答え「そうではない。あれは型だったのだ。あなたは死ななければならないのだ。」もし12軍団の天使たちが助けようと思えば、助けることが出来たにもかかわらず、そのようなことをすれば、聖書が、どうして実現されましょう。神の国がどのように実現できるでしょうと十字架への道を歩まれた。キリストの場合は十字架の苦難から救われるのではなく、死んで死からよみがえらされると言う道を私たちのために通られたのだ。しかし、この死んでよみがえられたというイエス様の体験が、私たち全ての人間が死と滅びから救われるという、キリストの願いと神の民の体験につながっていく。
ヘブル5:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
今日はペンテコステですが、ペンテコステの時、ペテロはこう言った。
使 2:29「兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

(3)全世界に
26~31節は、ダビデによって確立される王権がどのようなものかが記されながら、キリストによって確立される神の国の支配とその広がりが全世界に及ぶことが重ねられ、預言されているところだ。
22:26節は「(文では)へりくだる者はくらひて飽くことをえ…願わくはなんぢらの心とこしえに生きんことを」とあり、苦難の中にある人にも救出の日が来ることを告げ、(小畑)キリストにある祝宴を思い起こさせる。
22:27節は、「(新共)すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り」「(岩)思い起こしてヤハウェに立ち帰れ、地の隅々までことごとく」とあり、「(文)伏し拝むべし」となる。キリストの福音が全世界に及ぶという幻。ダビデが神の御業を拝したように、全世界が神の御業を拝して讃美をもって近づいて来るだろうと告げている。(新注)
マタ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
22:28にあるように、王権は【主】のものだ。キリストは「王の王、主の主」だ。(黙19:16) 
22:29は「(LB)高慢な者も、謙遜な者も、死すべき運命にある人は皆、主を拝みます。」ダニ7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
ピリ
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。

結び 「わが神わが神という断末魔の悲鳴かと思われたのは勝利の凱旋への序曲だった。(小畑)」一寸先は光かもしれない。確かに、人間ははかなく皆この世を去っていかなければならない存在かもしれない。しかし、真に生きておられる主は変わらずに、ご真実であられるので、そのお方を知った人、そのお方に頼った人、そして、確かにその真実を体験した人、その神の民は無数にいるのであって、その人たちによって、世よ限りなく、その真実が伝えられ続けていく。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)