「主は我が牧者」詩篇23篇(2015年06月07日)

序 : 詩篇の中で最も愛され、有名な詩篇だ。内容が牧歌的で美しく、読む者に励ましや癒しを与え、試練の中での希望と天国へのあこがれが生まれる。エレファントマンの例話。(生まれつき、顔が奇形の人が、人として取り扱われず、象男として見世物小屋で働かされる。この人にある人間のこころを発見する場面がある。それはこの象男が詩篇の23篇を暗唱していて、それを呟くように語る場面だった。)それで、スポルジョンは泣いて夜を過ごす人の慰めとしてナイチンゲールに例えている。詩篇23篇が素晴らしい看護士さんだと。「ダビデの賛歌」これはダビデが作った詩だ。

本論1 主は我が牧者
(1)ダビデが自分を羊に例えた謙遜
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
まず、注目したいことは、ダビデが、自分を羊の立場においていることだ。この詩篇は、第2サムエル記の時代、サウル王が死んで、ダビデが王となりその支配を確立していく中での作品と私は思っている。エゼキエル書などでは、政治家が羊飼いに例えられている。つまり王であれば、羊飼いの立場に自分を置いて考えてもよさそうなところだ。そのダビデが、自分を一匹の弱い羊に例えて、主を羊飼いとしている。ここがまず素晴らしいところだ。ダビデは王宮に仕える前に、父親の羊を飼っていた経験がある。そして、羊が弱い生き物だということを体験としてよく知っていた。羊は自分を守る力を持っていない。また迷いやすい。さけは自分が生まれた川に戻り、伝書バトは遠く離れた場所から、正確にもと来たところに帰れるのに羊は目の前の物だけを見る近視眼。だから、獣や盗賊 から身を守り、どこに行ったら何があるかその目的地に導くのは、羊飼いだよりなのだ。「ダビデは王になっても、自分の弱さを良く知っていたので、自分を羊に例え、神を羊飼いに例えた。王もただの弱い普通の人間だ。

全英オープンを見ながら、」息子曰く「ジェコビッチはどんな選手とやるときにも挑戦者としての姿勢で戦っているように見え、そこが彼の強さのように思える」と。ジェコビッチは世界ランク1位の選手。イエス様は(マタ20:26・27で)「…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」とおっしゃったとおりだ。「(小畑は)…私はあなたの群れの中の一匹の羊ですとした身の軽さ、心の涼しさ」と書いている。

(2)羊飼い次第
「(内村は)…牧者の尊さを知るには、羊の愚かなるを知るを要す。」羊の愚かさ、弱さを知る。自分という存在が弱く脆く愚かであることが分からないと、羊飼いなど必要ないと思ってしまう。自分に自信のある人は神様を不要にする。しかし、その人は、自分という存在が本当は弱く愚かであることを知らないだけ。(M氏の証) 本当は人間はみな羊なのだ。弱い存在なのだ。守りも、どこに行くかということも、羊飼いにかかっている。「(小畑)羊は羊飼い次第、自らことを図らない。羊飼いがもし無能、無策、無慈悲なら、羊は飢渇と危険にさらされる」エゼキエル書には、羊の事より自分を養うことに熱心なわるい羊飼いとして政治家が描かれているし、イエス様はヨハネ10章でオオカミが来ると逃げてしまう雇人は、羊の持ち主ではないことや、盗人の事も語っている。そして、「わたしは良い牧者です」と宣言され「わたしは、羊のために私の命を捨てます」と十字架を予言された。ダビデもよい牧者だった。
(1サム17章34・35) には「…獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。」と言っている。
「モアブ人はケモシの神、カナン人はバアルの神、アモン人はモロクの神に幼児を燔祭にしたが。(内村)」ダビデは、そして、聖書は主、「私は存在する」とモーセに現れた生ける神、主は我が牧者と言っているのだ。

(3)主こそ良き羊飼い
羊にとって、羊飼いに頼ることこそが一番安全で、確かだということを良い羊飼いであったダビデは実際に知っていた。
「(キドナーは)羊にとって、羊と共に住み、導き手、癒し主、守り手である羊飼いは全てである。」
1ペテロ5:7 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
詩篇37:5「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
羊がすることは、羊飼いを信頼することだけ。
そして、それは「乏しいことがありません」「(LB)必要なものはみな与えてくださいます。」「なにも困らない(小池)」イスラエルの民はエジプトから脱出した後40年間荒野を旅したが、申2:7には「…あなたの神、【主】は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」記されている。私たちは満ち足りていることを知らなければならない。(スポルジョン)」現在も将来も。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
羊飼いは、牧場を知っている。羊にはわからず、こんなところにと思うような所に導かれ、大好きな青草、若草、柔らかい草の原で、休ませ安息を与えられる。長々と体を伸ばしてゆっくり。いこいの水「(LB)ゆるやかな流れ」
詩 < 100 > 感謝の賛歌
100:1 全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 【主】はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

本論2 人生の旅路
(1)御名のために
23:3「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
3,4節は羊飼いと羊のイメージから旅人とガイドのイメージになる。それは人生の旅路、神のもとに行くまでの旅路だ。主は私たちの必要を満たすだけではなく、私たちの魂を生き返らせる。「(岩)回復させ」そして、神様の御許に生けるように、義の道を用意してくださる。19:7で「主の教えは完全で魂を生き返らせ、」とあった。確かに神様のみことばは、聖書は私たちを救い、また新しく作り変える。そして、私たちが、神様の前に正しいとされる義の道は私たちの正しさのゆえではなく神ご自身の正しさにその根拠を置いている。「(内村は) われ、まず神に恵まれるの資格を作りて、しかるのちに彼の指導にあずからんと欲する者は、永久これにあずかるあたわじ」まず神様に相応しい人間になってから神様を求めようとしたら、いつまでたってもなれないよ。まずはありのままでイエス様の前に出ることだ。なぜなら、神様が一方的な愛と恵みをもって私たちを救ってくださり、導いてくださるからだ。「(内村)我らの義をもって誇るあたわず。そはわれらの義は神の義にして我らの義にはあらざればなり。」これがルターが救われた時の証だ。ロマ1:17「…福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」私たちは信仰によってのみ救われるのだ。それは、救いの拠り所は私たちの内にあるのではなく、キリストの内にあるからだという意味なのだ。神が人となり、私たちの身代わりに死んでくださったことのゆえに信じる私たちの罪が許され、私たちは恵みに拠って救われるのだ。また、私たちが神の御許に行くことが出来る道を歩めるのはガイドが旅人の私たちに歩調を合わせてくださるからだ。一匹の羊が失われると、羊飼いはその羊を探して見つけ出し、大喜びでその羊を担いで、皆と喜ぶ。

(2)共におられる方
23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
幸いなことは、私たちの人生の旅路を神が共に私たちの歩調に合わせて歩んでくださると言うことだ。だから、パウロはこう言ったのだ。「Ⅰコリ10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」嵐がないわけではない。しかし、嵐の中に共にいてくださる。航海中、暴風雨に、赤ん坊は大人より驚かない。赤ん坊は母親が共にいるだけで良い。
死の陰の谷を歩くことがないわけではない。水のほとりが、野獣がひそむ修羅場にもなる(小畑)。断層山脈を持つパレスチナでは断崖や渓谷もある。ワディ(アラビヤ語)と言われる、水の無い川底があり、その陰に猛獣や盗賊が隠れていたりする。 (小池)。でも、ダビデは「わざわいを恐れません」と言う。「(LB)こわがったりしません。主がすぐそばにいて、道中ずっとお守りくださるからです。」(Gさんが山羊と添い寝)(クリスマスのベツレヘム)マタ28:20(最後の節は)「…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というイエス様の約束だ。

(3)死の陰の谷
羊飼いは二つの棒を持っていた。一つは「むち」と訳されている物で、「シェベト(原)」先に鉄の金具が着いた棍棒(新注)で野獣や盗賊と戦う武器、もう一つは「杖」と訳されている「寄りかかる」という意味で、支えたり、導くための大きな杖。「(NIVでは)staff」と訳されている。困難なところに行くのにはガイドが必要だが、私たちのガイド、私たちの羊飼い、私たちの同伴者は武装している。 (キドナー)」全仏オープンの錦織にボディーガードがついていた。
ただ問題は、自分の内に神に喜ばれない物がある時に、愛する親が子を叱るように。神が私たちを打つ場合がある。それは罰ではなく凝らして、清めるための愛のむちだ。
Ⅱサム7:14「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」ヘブル12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(品田先生に怒られて嬉しかった・息子を殴った父)
私たちの試練の究極には「死」がある。Gさんが山羊と共に過ごしたように、死を乗り越えさせてくださる。キリストの十字架の意味もここにある。スポルジョンは「死の陰」と言う言葉に注目して、死ではなく、死の陰なのだと言う。影は行く手を瞬時も阻めず、犬の陰は噛みつけないし、剣の陰は殺せない。死の陰は私たちを滅ぼせない。そして、影があるのはどこかに光があるからであり、死は本質を取り除かれて、死の陰だけが残っているのだ。」と言う。ルイスの「シャドーズランド。」「影の国よさようなら」「(内村も)死に際しては1人それを通る。骨肉をして我を攻むるあり、父と母とにして捨つるあり。神が共にいなければ。葬れよ社会。埋めよ、地。神を葬り得ざるかぎりは、汝らはわれを葬りあたわざるなり。」
イザ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」

本論3 主の家に住まう
(1)敵の前で
23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」
「(新共)わたしを苦しめる者を前にしても」「(口)宴をもうけ」「(LB)おいしいごちそうを備えてくださいます。たいせつな客としてもてなしてくださったのです。」
ダビデは我が子アブシャロムの反乱によって都落ちしマハナイムに行った時、
バルジライが、寝台や、小麦、大麦、炒り麦、そら豆、レンズ豆、蜂蜜、凝乳、羊をダビデとその一行の食糧としてふるまわれると言う経験をしている。(2サム17:27~29)
またパリサイ人の前でイエスのためにレビはごちそうをふるまう。(マコ2:16)
そして、捕縛し、十字架につけようとする人たちを知りつつ弟子たちと晩餐の食事をする主も思い出す。主は食事し、葡萄酒を飲まれ、讃美をされた。
「旅人を迎え入れる主人は、余裕、旅塵にまみれパサパサになった旅人の髪の毛と皮膚に油を注いでくださる。 (小畑)」「(小池)わが首(こうべ)を油漬けににし給う。…」「あふれる杯」は「まあ飲め飲め」とあふれるまで酒を注ぐ様子を連想するかもしれませんが、イエス様が井戸端で会ったサマリヤの女に言った、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハ4:14)」5000人に与えても12のかご一杯に残った神の無尽蔵な豊かさを思わせる。

(2)命の日の限り
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
「(文)恩恵(めぐみ)と憐憫  (あわれみ)とわれにそひきたらん」「(NIV)goodness and love」「(岩)善きことと恵みのみが」
現実の生活は敵に追われるようなせいかつだったかもしれない。しかし、敵が追って来るというのではなく。慈しみと恵みが追って来るという。「(小池) 善福(さいわい)と恩恵(めぐみ)とが私を追跡する」
Ⅱコリ 5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

(3)主の家に住む
「(新共)主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」「(LB)やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮らすことでしょう」「(NIV)for ever」「(岩)私は帰ろう」都落ちして逃亡中のダビデはホームシックになっていただろう。エルサレムに帰って神と共に住む生活を願う
羊が一日を終えて、安全な囲いの中に入れられて守られるように、私たちは、毎週教会へ。そこに帰ってくる。こうして、私たちは人生の旅路を終えて、永遠に主の家に住む。(スポルジョンは)「全世界が神の家だ。私が天の家に入る時も、仲間や家は変わらない。ただ主の家の上階にいつまでも住みに行くだけ。」
ヨハ8:35でイエス様は「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」と言っている。私たちは放蕩息子だったのかもしれませんが、息子なのだ。先週、「失敗しながら神様の御許に行く」という福田師メッセージも思い出す。そういえば、放蕩息子を迎えた父は宴会をもって息子を迎え入れた。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)