「栄光の王の入城」 詩篇24篇 ( 2015年06月21日 )

序 : 全体の印象はいかがだろうか。私は特に後半7節からの印象として、キリストのエルサレム入城を連想した。22篇からの流れでは、22篇の十字架、23篇の「命」とでも言おうか、そして、この24篇のキリストの昇天、(天のエルサレムへの入城)の預言として、一連の流れを感じる。神様がこの詩をそのように用いている。つまり私たちはこの詩篇を通して、栄光の王としてのキリストを思い浮かべる。しかし、それであっても「ダビデの賛歌」として記されたダビデの経験があって、それがこの詩篇のベースになっている。ではそのベースになった出来事とは何か。

本論1  全ての支配主
(1)契約の箱の入城
 それは第2サム6:12~19、1歴15:15~29などに記されている契約の箱をエルサレムに安置するためにダビデが部下たちと共にそれを運び入れた出来事だ。
Ⅱサム6:4~で、ダビデとイスラエルの民たちは歌を歌いながら、立琴、タンバリン、カスタネット、青銅のシンバルを鳴らしながら、神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町エルサレムに運ぶ場面がある。契約の箱とは、かつて、イスラエルがエジプトの奴隷状態からモーセによって救出され脱出した民たちが、荒野で十戒を与えられ、それを契約の箱に入れて、神がアブラハムに約束した、約束の地カナンに至るという出来事があった。それは神の言葉の象徴であり、神の臨在の象徴でもあった。民たちは神への礼拝をそこで行った。やがてモーセの後継者ヨシュアによって約束の地を受け継ぐと、そのカナンの地はイスラエルの所有となっていく。今、契約の箱が運ばれようとしているエルサレムも、昔からイ スラエルの中心地ではなかった。かつてエブス人の要塞がシオンの町にあった。ダビデがその要塞を攻め取って、ダビデの町として城壁と王宮を建て、やがてはダビデの子ソロモンがその山に神殿を建てる。ダビデの時代は天幕が張られた。そこに今、契約の箱が運ばれ、安置されて、礼拝の場として確立されようとしている。そういう場面なのだ。その時のことが記念とされこの詩の形に残っている。一大イベント、祭りだ。ダビデは箱をかつぐ者たちが六歩進むごとに、肥えた牛をいけにえとしてささげたことが記されている。彼は踊りながら、エルサレムに入っていく。

(2)全ての創造者
24:1「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」
この雄大な言葉から、この詩篇は始まる。世界にはいろいろな人間が考え出した宗教があるが、神の世界は天、地は人間のものという考えが多いのではないかと思う。しかし、ダビデは「地とそれに満ちているもの」イスラエルの領域にとどまらず地球上の全地が、そして、イスラエルの民たちだけにとどまらず、全世界に住む、全ての人、全ての動物植物も、主のものであると言う。私たちもそうだ。主が所有しておられるものの一人であり、ひとつである。主がご自分の意志でご自分の目的のために、全てを、また、あなたを私を創造され、保持しておられる。私たちは主の中に存在し、生かされている。今私が生きていると言うことは、神様が、私という人間なしでの世界を望まれず、この世界に私と いう人間を目的と意味を持って生かしておられる。使17:25~28には「…神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方であり…ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになった。それは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。…。
また、使 17:24にはこうも記されている。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。…。神は「契約の箱」という小さな箱に入っておられるわけではない。箱その者が偶像化されるようなものではない。まちそれを望むようなお方でもない。

(3)天地創造
24:2「まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。」「川の上に地が築きあげられている」というのはわかりにくいかもしれない。しかし、二つの場面を想像してみるとよい。一つは、誰も見たことがない天地創造の場面がどのようであったのか想像することだ。なんとも不思議な地ではないか。火のかたまりが酸素もない地中深くにあり、その上を水と地が覆っていて、深い海溝もあれば、エベレストのように高い山々もあるのだ。明らかに地は人間のために、人間がそこに立ち、そこで生活し、生きていくために神によって創造され、与えられている。その天地創造の時にどのように地が出来たのか。「(LB)海を押しやり、かわいた地をあらわにされました。」「(岩)海の上にそれを築き、潮(うしお)の上にそれを据えたのだ。」もう一つはノアの洪水が世界を覆った後に水が引いていった場面を想像することだ。水が山の頂からの川となっていく様子を思い浮かべる。「(KJV)upon the floods」(スイスの体験、104篇) 地を創造したお方がそれを所有し、保持しておられる。
 
本論2 神の民
(1)礼拝の民
24:3「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」
ここで、人間、特に、その創造主を礼拝するにふさわしい人間とはどんな人間なのかということに視点が変わる。実は、契約の箱がエルサレムに運ばれる前に、こんなことがあった。その行列がナコンの打ち場まで来たときに、牛がそれをひっくり返しそうになったので、ウザという人が手を伸ばして、それを押さえた。するとウザはその場で死んでしまうという出来事が起こった。先ほど言ったように、箱そのものが神であるわけではないのだ。しかし、神への信仰は決して侮れるものではないことをこの出来事は示していて、ダビデは主の箱を自分の町に入れることを恐れ、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。そして、三か月様子を見ると、神がこのオベデ・エドムの家を祝福されたので、それ で、安心し、そして、それをエルサレムに運びいれたのだ。この事件は神への畏れと言うものを思わせる。神の前に立てる人間がいるのかということだ。いればそれはどのような人たちなのかということだ。

(2)生活に根を下ろした信仰
24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
詩15:1には「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。15:2 正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。」と言う言葉があった。今日の詩篇では「手」「心」「魂」そして、「ことば」ですから、
人間全体がふさわしくなければならない。しかし、そう言われると、イエス様だけに望みを置いている私たちは「とても私は」となってしまう。しかし、イエス様は人間の体を持たれたように、キリストの恵みに行かされる私たちは肉体を持つ私たち自身にキリストによって与えられる恵みによる変化が起こるべきだ。スポルジョンはこう言う。「汚れた手で給仕する召使を家に置く王はいない。恵みの貴重なしるしが、外面的、実生活でのきよさだ。」祈り会で、「神の国の最も小さな人」と言う言葉から、神の国の民に大きいとか小さいとかあるのかという話になった。クリスチャンに序列があり得るかみたいな。その時、どんな話をしたか忘れてしまったが、それからちょっと後で、同じルカのテキス トで家内と聖書を読んでいた時、「たくさん赦された者が、たくさん愛する」というイエス様の言葉を読んだ。その時、私は祈祷会での問いを思い出した。私たちの行いと神の恵みとが、私たちと神様との中でどのようにづけられているのかということ。それが一つのヒントになるかもしれないと思ったのだ。
詩篇15篇の時にはこう説明した。結婚をしても、相手を全く愛さずに、相手が何を考えようがどう思おうが無視して好き勝手なことする人がいるだろうか。救われたら、自分のために命を捨ててくださった方が何を考え、何を期待し、どうすることを喜ぶかを考えるだろう。私たちは生活の中で主が何を期待しておられるかを誠心誠意聞き、受け止め、自分を変えていかなければならないと。そのようなことが、つまり、私たちの正しさも神様から頂くものなのだということが次の節で表されている。
24:5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
「祝福とは神様のほほえみだ」とおっしゃった先生がおられた。「(LB)救い主である神様はその恵みが日々の生活に根を下ろすようにしてくださいます。」
詩23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
礼拝に相応しい者という視点で考えるなら、日常生活の中で福音を生きることだ。「真の礼拝とは日常の実存にある(小池)」

(3)神との交わり
24:6「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ」
それが、クリスチャンのあるべき姿だ。一言で言えば、神を愛し、求め、御顔を慕い、神との交わりを願う、顔を神に向けて、歩もうとする者だ。
ヤコブは創世記に出て来る、イスラエル民族の基礎となった人のこと。アブラハムの子、イサクの子、ヤコブだ。人間としては、ずるがしこく、人をだますようなタイプの人間だった。しかし、神様のおとり扱いの中で苦労し、変えられていく様子が創世記に記されている。とりわけ、兄エサウとの和解の前に、神と格闘するという場面がある。
家族は先に川を渡らせ、自分一人が残って、祈ったのだろう。するとみ使いのような人が現れて組み合う。ゴーギャンが絵にしている。格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれ、その人が帰ろうとする。するとヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」するとその人は言う「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(ヤコブ:かかと、だますの意が語根に)(イスラ:戦うの意が語根に)こうして彼はイスラエルと改名した。神の民を表すようになり、このユダヤ人だけでなくキリストによって、キリストを信じる世界中の人が霊のイスラエルと呼ばれる神の民となっていく。彼の人間性はさとおき、神を求める、熱心においてはヤコブのようでありたい。「求めよ、さらば得られん」エレ29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。 29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──   セラは自分の手と心を顧みる時だ。

本論3 万軍の主の入城
(1)契約の箱の入城
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
契約の箱はエルサレムの町の城門にかかった。入城シーンだ。ダビデはウザ事件以降、レビ人が契約の箱を担ぐようにし、たくさんの (3万人程:内村)民たちの行列が契約の箱や王であるダビデと共に入城していく。
黙示録には、キリストが天のエルサレムに入城されたあと、霊のイスラエル、キリストによって罪を赦され、神の民とされた、世界中の、人たちが、時系列を越えて神を礼拝する。
黙7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

(2)キリストの昇天
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】。
実際に、神の箱を担いだ人や合唱隊が、うちにいる祭司に向かって呼びかけたのかもしれない。門に向って「上がれ」と言い、門の中から「栄光の王とはだれか」と問いかけて、「強く力ある【主】。戦いに力ある【主】」と応じる。(新注) 「(新共では)強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」「(口)勇ましい」「(文)猛(たけ)き」「(LB)向かうところ敵なしの王のことです。」こういう戦いに勝って入城するというイメージは、イエス様が人となられた時代に、多くの人たちが、メシヤこそ、ローマの圧政と戦ってくださる王として迎え入れようとした背景と重なってくる。しかし、イエス様は実際には白馬にまたがる力の王としてではなく、ろばにのって、エルサレムに入城される、そして、神殿で献げられていた動物の犠牲が宿営の外で、燃やされたように、エルサレムの門の外で動物ではなく、完全な贖いの犠牲となられて、十字架にかかられる。これが「力ある主」と言えるのか。その時には全ての人にそのように思われたかもしれない。しかし、キリストが戦った戦いは悪魔と死に対する戦いだった。キリストは死んで、3日目に死からよみがえり、天に昇られた。この天こそが真の都、天のエルサレム、真の神の神殿だ。それゆえ、この契約の箱のエルサレム入城は、復活されたキリストが弟子たちの前で、天に挙げられた昇天の出来事に例えられる。

(3)天の御国の希望
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の【主】。これぞ、栄光の王。 セラ
こうして、敗北のように見えた主の十字架こそ、実際には悪魔と死に打ち勝つための勇気ある戦いだった。キリスト十字架の死がなければ死からのよみがえりがなく、死への勝利はない。キリストは死に打ち勝つ勝利を得るために死なれた。私たちも死ななければならない。それは私たちも死に勝利するためだ。
Ⅰコリ 15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
ロマ8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
契約の箱と共に、ダビデがそして、イスラエルの民たちが喜んでエルサレムに入城したように、既に天のエルサレムに入城された主が、こう言われる。
ヨハ10:7「…まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。…10:9だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

結び 詩 < 100 >には
100:1 全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 【主】はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
 
※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)