※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。
序 : 「指揮者のために。主のしもべ、ダビデによる」
今日は神の慈しみがテーマだ。しかし、最初に1~4節は人間の罪の問題を取り扱っている。
本論1 神を恐れない者の生活
(1)良心の麻痺
36:1「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。」
私たちは神に喜ばれる良いことにおいても、また、神に嫌われる悪いことを行うことにおいても、始め、聞くことから始まる。ここで「語りかける」と言われる言葉は「主の御告げ」とか言う「御告げ」と同じ言葉なのだそうだ。一方で天使から、神の御告げを聞いた羊飼いもいれば、他方で、2歳以下の男の子を殺せとの命令を聞く兵士もいた。聖徒には神が語りかけ、「悪者には、罪が語りかける」と「罪」があたかも人格あるもののように描かれている。その心の隙は、「神に対する恐れがない」ことだ。
罪とは何か。それはものを盗むとか、ウソをつくとかいう現れ出る実ではなくその、基となっていることは、神を認めないことにある。神によって万物が愛によって創造され、互いに愛し合うように創造されながら、神の存在を認めない、その支配を信じない。その裁きを恐れない。神に対する恐れがない。それが罪の根なのだ。使徒パウロはロマ3:10~12で「…義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」と書き、全ての人が神の前に罪人であることを述べながら、その締めくくりにこの言葉を引用して「彼の目の前には、神に対する恐れがない。」と記している。
(2)自分へのへつらい
36:2「彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。」
これはすこし分かりにくい文章なので、いくつかの訳をご紹介しよう。「(口)彼は自分の不義があらわされないために、また憎まれないために、自らその目でおもねる」「(新共)自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むことも出来ない。」「(LB)知らぬ存ぜぬでで押し通せば、どんな不正行為も隠しおおせ逮捕にまでは至らないと自分に言い聞かせています。」新共同訳が分かりやすい。「…自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むことも出来ない。」
「今度だけ」「これくらいのことなら」「みんながやっているから」という殺し文句の蜜を振りかける。スポルジョンはあらゆるへつらいの中で、自分に対するへつらいが最もばかげている。
36:3「彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。」
腐敗しているものが臭いで分かるように、彼の心は言葉に出る。その言葉は「不法と欺き」「悪事(新共)」と「偽り(文)」「(新共)目覚めようとも…しない」「(岩)よくすべき思慮を彼は失った」
(3)一日の終わりに
36:4「彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。」
神様が人間が寝るということを定められたのは人間にとって良い意味があると思う。時間だけを価値と考えれば、90歳まで生きる人がその生涯の30年間は寝ていると考えるならば、もったいないと思うかもしれない。しかし、一日が一生、人間には一日という生活単位が与えられているのだ。極悪人が寝ずに悪事を働いたらどんなに世界が悪くなることだろう。戦時下で戦っている兵隊たちも毎日寝なければならない。ダビデはサウルに追われるさなかにも、時には洞窟の中でさえ寝なければならなかった時代を経験している。そのような彼の詩篇には聖想と言うものが伺える。彼がアブシャロムに追われながら記した詩篇3:5には「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。【主】がささえてくださるから。」し記し、詩4:8では「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。【主】よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」と記し、詩16:7ではこう言っている。「私は助言を下さった【主】をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
これが神を恐れるダビデの夜の寝方だ。一日を終える過ごし方がある。
1 祈りの心を整える。まず呼吸を整え、神が共にいてくださること (現存) を意識する。一日をざっと振り返って、感謝したいこと、自然に浮かび上がってくることを心に留め、神に感謝する
2 聖霊の助けを願う。一日を神の目で振り返る。神が私に見せたいと願っていることを見れるように願う(自己分析ではない)
3 一日の、自分の反応と心の動き、感情を丁寧に振り返る。
4 感謝 悔い改めと赦しを願う 癒されていない傷の癒しを祈る
5 明日への助けと導きを願う 必要な助けと恵みを願う 10~15分一日の終わりに。
元旦礼拝にこれを一年の計としてやってみるのも良いかもしれない。
悪人は一日の終わりに、寝ながらさえも自分の利益を考える。
ミカ2:1「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。」
本論2 神の家としてのこの世界
(1)神の恵みの大きさ
36:5 【主】よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。
神を恐れない者の生活から、普通なら、神を恐れる者の生活になるはずなのだが、5~9節までは、神様の恵み、慈しみ、その現存に触れて神を崇める。人間が悪人か善人かではなく、神の恵みと愛の大きさを私たちがどれだけ受け止めようとしているか、それを無視しようとしているかと言うことが人間の尺度となるからだ。
パウロは(エペ3:18・19でキリストの愛について)「…その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。…」私たちが信じているよりもキリストの愛は大きいのだ。
O先生の「ヨハネの黙示録注解 恵みが全てに」の中で4・5章の天の幻の始めにこうある。「幻の啓示は、天の御座と礼拝の光景から始まる。天の永遠の礼拝こそが、地上の森羅万象の根源にある。…地上に起こるあらゆる出来事は、天の御座の光によって照らし出される。」天の永遠の礼拝、どんなにこの世が混乱していたとしても、いつも天では神への礼拝がある。それは私たちにとって大きな慰めだ。サタンは天から落とされ地上でも敗北が決定している。ダビデは様々な困難の中で、天の神を仰ぎ見ることが出来た。どんなに悪があっても、神の恵みは巌のように不動の物として存在している。
(2)人と動物の栄え
36:6「あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。【主】よ。」「(新共)恵みの御業は神の山々のよう」「不動で(LB)」「公正(岩)」は「大きな淵(口)」のようだ。
エベレストは8840m、マリアナ海溝は10911mで、地球の中心からは6366.4kmだそうだ。「(内村)エホバは地の上にいまして、暗きは人の世のみ」と言い、「我らの生きている世界は荘厳なる実在の神の世界である。」
私の印象に残ったのは「あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。」と言う言葉だ。
人間の罪のゆえに、世界の歴史の中には様々な負の面を見つけ、数えることが出来る。しかし、それでも、いつも人類は絶滅には至らず、残される民がいて、ある人たちは、このような終末的な様相を帯びてきても、進化論を信じて、人間も世界も良くなっていくと論じる人までいるのだ。それは「神が、人や獣を栄えさせてくださっているからだ」この「栄えさせてくださる」と言う言葉は「(口)救われる」「(文)守り給う」
「(LB)心をお配りになります」とある。あなたはこの世界に神のご支配を見ることが出来るか。
マタ6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
(3)御翼の陰
36:7「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。」
ここから「主よ、あなたは」という個人的な関係から、「神よあなたは」と全人類の視野で語られる。イエス様はマタ23:37で「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」自分の弱さを知っている者は御翼の陰に身を避ける。ダビデは「(詩17:8)私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」と祈った。
本論3 神の慈しみの豊かさ
(1)あなたの家の豊かさ
36:8「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」
「家」の豊かさ。以前、中東の天幕文化についてお話したことがあった。決して無下に客をもてなさずに帰すことはないというものだ。(ルツェルンでの体験) 神様の家のもてなしということを考えてみたい。そしてこの家をこの世界と取ることも出来る。
「楽しみ」と言う言葉は「(原)エデン」と同じ言葉だそうだ。エデンには最初4つの川が流れていた。人はかつてそこで永遠に生きた。しかし、罪を犯してエデンを追放された人間は死ぬものとなり、いのちの木への道を断たれた。このいのちの根源は神にある。
(2)いのちの泉
36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
エゼ47章には、神殿の敷居の下から流れ出て、大河となり両岸に、木と実を実らせる川が記されている。また(黙示録22:1・2)にも似た川が登場する「御使いはまた、水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。この川はどちらも聖霊を表している。イエス様はサマリヤの女に言われた。
ヨハ4:14「…わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
また天国には「これを照らす太陽も月もいらない。・・・神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。」とある。(黙示録の21章)子羊とはイエス様を指す。だからイエス様こそ太陽に勝るまことの光なのだ。以前盲人のK先生が、私たちは自分の目で見ているつもりでいるが、光がなければ見えないとおっしゃった。私たちは真の光である神によって、目に見えないものを見ることが出来るようになる。
(3)勝利を待ち望みながら歩む
36:10「注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。」
この「注いでください」継続的に「注ぎ続けてください」という意味だそうだ。「(岩)絶やさないで下さい」とある。「(口)絶えず救いを施して」「(新共)恵みの御業が常にありますように」「(LB)お心にかなった生き方をしようとする人々に」
36:11「高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。」
ラグビーで敵側のタックルをかわして逃れるかのような表現だ。実際には、サウルやアブシャロムの手から逃れていたダビデの切なる祈りなのだろう。勝者は敗者を足台のようにして踏みつけ、勝利を宣言する。敵の勝利によって、自分がそのような目に会えば、私が面目がないと言うより、神さまが侮られることにならないか。良心にとがめることのない真実をもって主にお仕えしてきたものを主がそのようにならないようにと願っている。そのダビデが詩110:1でこう記している。「【主】は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」この言葉は新約聖書で、ペンテコステの日にペテロによって引用され、
また、ヘブル書の記者によってキリストの十字架による勝利の言葉として引用されている。
ヘブル10:12「…キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」
結び 36:12 そこでは、不法を行う者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。
やがて、敵は滅ぼされ、完全な勝利が表される時が来ます。ダビデはキリストのまだその時が来ていないにも関わらず、それを確信して待ち望む言葉としてこれを記しているのです。それはキリストの勝利がやがて完全に表される時が来るのを待つ私たちの姿だ。
※注 参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社 詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部 聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館 「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社 「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社 「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社 「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社 「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 「ヨハネの黙示録」岡山英雄 いのちのことば社 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル)