※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。
序 : ナザレという小さな村に住むまだ、結婚をしていない処女マリヤのもとに、天使ガブリエルが現れ、聖霊によって男の子を身ごもることを知らせに来た。いわゆる「受胎告知」の場面がこの前の所に記されている。その後のマリヤの行動を見る。
本論1 エリサベツとの対面
(1)友
ルカ1:39「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。」
1:40「そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」
マリヤのいたナザレは現在は「エン・ナーシラ」と呼ばれ、ザカリヤの家は(中世の伝説)エルサレムの西8キロにあり、聖母訪問教会が建てられている。その間105km。マリヤは当時12,3歳とも言われ、そんな少女が行くには4日程必要と思われる。なぜ、受胎告知を受けたマリヤが急いでそんなところまで行ったのか。それはその前の1:36で、天使ガブリエルが、キリストの受胎告知をした後、マリヤに「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。」とあるからだ。親類とあるが、従姉妹という人もいるが、年の差はかなりある。ですからエリサベツおばさんと言われる。
このことを考える時には、マリヤの特別な状況を考える必要がある。「私は男の人を知らないのに、聖霊によって子どもを身ごもりました」と言う言葉を誰が信じてくれるでしょうか。結婚する予定だった、ヨセフも理解してくれるはずがない。実際は天使がヨセフにも知らせたので、いざこざは起こりませんでしたが、もし、ヨセフが訴えでもしたら、当時は、石打ちの死刑に相当する罪とされるような背景がある。マリヤは心配を抱えながら、メシヤを宿すという素晴らしい天使の知らせを「どうぞお言葉通り、この身になりますように」と受け入れたのです。この自分と同じように神様から子供を授かることを告げられた人がいる。それが、親類のエリサベツだったのだ。ヘンリー・ナウエンは こう言っている。「神は彼女が孤独に置かれることを望まれず、マリヤに伝達不可能と思える出来事を分かち合う近しい友をお与えになった。それがエリサベツだ」と。神はこの二人の女性を通して、歴史を変えようと決断され、マリヤはエリサベツだけが彼女の「はい」を肯定してくれるだろうと思ったのだ。(ナウエンと読む福音書p28)
1:56に「マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。」とあるので、マリヤはエリサベツの出産の頃までいたことになります。二人はこの期間互いに励まし合うことが出来たのだ。
(2)キリストを証するために
1:41「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」
エリサベツは24節を見ると、5ヶ月間近く引きこもっていて、36節には、今はもう6ヶ月とある。私が神学校時代、世界で始めてシャム双生児の分離手術を手がけた、ドクター・クープの講演会がチャペルで持たれた。その時、体内の中での胎児の成長の過程や、命の尊さを教えられました。胎内の赤ちゃんは12週で指紋ができ、まばたきをし、指をなめ、飲もうとするしぐさが生まれます。4カ月で胎児自身が痛みを感じ、母親の心臓の音を聞き、光を見ると手で目を覆います。確か詩篇139篇を引用された。
詩139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」
139:14「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」
139:15「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」
139:16「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
マリヤの挨拶を聞いた時に偶然胎動が起こったというのではないだろう。このエリサベツの体内にいた子は後にバプテスマのヨハネとなる人物だ。バプテスマのヨハネとはキリスト到来の先駆者として、キリストを指し示す使命を帯びて、現れる人だ。私たち一人一人も、皆、このキリストを証するために、この世に生れて来るのだ。一人一人が神から、キリストによって愛され、信仰によって神の子とされ、このキリストこそ真の救い主であることを証するよう神は私たち一人一人に願っておられるのだ。
(3)神のプレゼントを受け取る
1:42「そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」「声高らかに(フ)」「喜びを抑えきれず(LB)」「叫び(岩)」
詳しくマリヤから聞かされたわけではない。ただ、挨拶を聞いた時に、聖霊に満たされて、エリサベツは預言したのだ。
「あなたは女の中の祝福された方」と言う言葉は最上級を表す表現だそうだ。「素晴らしい恵みを受けた(LB)」「お子さんが神さまの最も大きな誉れを表すようになるんですもの(LB)」と表現している。
1:43「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」
これは、エリサベツが、マリヤに宿った子どもがメシヤであることを聖霊によって悟ったということだ。例えそれがまだ生まれてきていなくても、自分にとっての救い主となるお方であると知り得たのだ。エリサベツにとって奇跡によって不妊の体に子どもを宿したことも、あるいは、マリヤにとって処女であるのに聖霊によってメシヤを宿したこと、それは確かに素晴らしいことだが、最も素晴らしいことは、その救い主を信じる一人の信者となることだ。神が救い主を送られたのは、人が信じて滅びを免れて救われて神の子とされるためだっだ。その神様の願いどおりに、それを受け入れることこそ神様の願いにこたえることなのだ。神の与えてくださるプレゼントを拒まずにいただくこと。これこ そ人間の幸いだ。
本論2 神に選ばれた二人
(1)エリサベツの信仰
1:44「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」
胎児自身が喜びおどったとしてもおかしくない。ウエストミンスター小教理問答書か大教理問答書に「人の主な目的は何ですか」との問いに対してその答えは「人の主な目的は神の栄光を表し、かつ、永遠に神を喜ぶことです」とある。人生の目的、私たちがこの世に生を持った意味は「永遠に神を喜ぶためなのだ」。エリサベツにはそれが喜びの胎動だとわかったのだろう。エリサベツにとっては子どもが与えられることが祝福とされていたユダヤ社会の中で、年寄で与えられたにせよ、皆から喜ばれる事であるが、マリヤにとっては、侮蔑されるのは明らかなように思われる出来事だったのだ。そんなマリヤが、様々な思惑を持ちながら、心配しながら、エリサベツに所にやって来て挨拶したら、このよう なエリサベツの預言の言葉を聞き、彼女は心配を取り除く、神のご配慮を感じたことだろう。(キリストが葬られ、墓に向かった女たちが心配していたのは、墓にふたをするように転がされていた大石をどのようにしたらよいかと言うことだった。しかし、それは神様が心配していてくださっていた。天使がその石を転がしたので、墓穴は開いていたのだ。Nさんの受洗。アニメの仕事をしようとした時)
1:45「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
文語文では「幸いなるかな、信じた女は。なぜなら主がおっしゃったことは必ず実現するのですから。」
エリサベツの夫ザカリヤは神殿の中で、不妊の妻が子を宿すとの天使のお告げを受けたが、最初信じられずに、印を求めた。そのため、口がきけなくなり、話すことが出来なくなった。しかし、今確かに自分は身重になっている。神の語った言葉がその通りになっている。本当に約束通りにこの身になっている。エリサベツは自分の体験として、それを告白している。しかし、それと同時に、夫と違い、マリヤはもっと受け入れることの難しい神の知らせをそのまま信じ、まだ、その身にそれが起こっているかどうかもわからない時に、それが必ず起こると信じ切っている。そんなマリヤを聖霊によって直感し、私になされたようにマリヤに対しても約束が必ずそうなる信じ、その確かな実現を楽しみにする。 そんなエリサベツの信仰を見る思いだ。
(2)マグニィフィカート
1:46「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、』」
1:47「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
それに応えて、マリヤもまた預言の歌を歌った。それが46~55節までに記されているマリヤの賛歌だ。それにしても、マリヤが良く旧約聖書を読んでいたこと、また暗唱していたことが、この歌から分かる。それは、サムエル記のハンナの歌や詩篇の引用がこの歌の中にあるからだ。46節の「あがめる」と言う言葉のラテン語読みから「マグニィフィカート」と呼ばれ、バッハをはじめ多くの作曲家たちによって曲が作られている。(私も以前、NHKでトン・コープマン指揮のアムステルダム・バッハ合唱団がライプチッヒの聖トマス教会の聖歌隊席で歌った「マグニフィカート」を聞いた。)それが、大きな立派な礼拝堂でなくて、有名な聖歌隊でなくても、例え無名の一人の魂であっても、その人の心の中に、どれだけ神様のご存在が「大きなものとされているか、マグニファイされているか、これがわたしたち一人一人にとって最も重要なことだ。私たちはパウロの確信を確信しているか。彼はこう言った。
エペ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
ロマ8:38「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
神の偉大さを知る。これがマグニィフィカートの意味だ。
(3)卑しい者
1:48「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」
エリサベツは大声を上げたが(42節)マリヤは静かだ。普通なら、興奮状態に陥るような、驚くべき知らせを受けたのに、「冷静」で「つつしみ深い」。「卑しい」は「低くする(原)」「身分の低い(新共)」「卑しさをかえりみてくださったからです(フ)」「神を偉大な者とすること」と「自分を低い者とする」ということは対になっているように思う。神を信じないようとしない人は、自分を大きなものとして、場合によっては自分が神の立場にあるかのようだ。逆に本当に自分を小さくする者は神の恵みに頼るしかありません。神様はそのような人に恵みを注がれる。卑しい者、低い者、身分の低い者、取るに足りない召使のような者こそ幸いなのだ。イエス様はこうおっしゃいました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタ5:3)」神の前ではそうなのだ。そして、マリヤはその代表のようにそれを体験させていただいたと神に告白しているのだ。しかし、もっと低くなられたお方がいます。イエス様その方ご自身だ。
ピリ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
マリヤは低くなって神様からの大きな恵みを受けられた。まさにキリストに似た体験をしたわけだ。
本論3 神の逆転劇
(1)信仰者マリヤ
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
エリサベツには胎動があったがマリヤにはまだない。しかし、マリヤは「大きなことをしてくださいました」と既に過去形で受け止めている。54節でも過去形が使われている。神の言葉は必ずなると信じ切っているマリヤの信仰を見る。またその恵みは自分だけに注がれるのではなく、全ての神の民に等しく注がれることを信じているし、またその通りなのだ。今の私たちにもこれから後の人にも、永遠に変わらずに注がれます。それ故マリヤの喜びは全ての人の喜びとなるのだ。
キリストが十字架にかかられる直前に、一人の女がイエス様に「あなたを生んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。その時、イエス様は「いや、幸いなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人達です」とおっしゃいました(ルカの福音書11:27・28)
実際新約聖書から感じ取れるのは、救い主の母として特別扱いされているマリヤではなく、弟子たちと共に、その信じる一人の信者として、共に祈っているマリヤであり、他の人たちの中にも一目置いて特別扱いしている様子を見ることは出来ない。キリストもまた、それを戒めて、ある意味で厳しく母親であるマリヤに接しておられた。(例としてカナの婚礼の席で、ヨハ2:4「すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」)
(2)神による逆転
1:51「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」
ここに社会正義の逆転を見る思いがする。マリヤは自分という社会的に地位の低い、また貧しく卑しい者に、永遠に世界中の人が幸せと思うような恵みが与えられたことから、目に見えない神様のご支配と言うものは、この世界の価値観をひっくり返して逆転させるような支配であり、その神の支配こそ真の支配であることを、悟ったのだ。
繰り返すが、それは彼女が、よく聖書を読んでいたこと、暗唱していたこと、それゆえ悟れた真理でもあった。例えば、権力を誇ったエジプトの王パロとその軍勢がイスラエルの民を追って来た時、奴隷状態に苦しんでいたイスラエルの民は海の中の地を渡って救われ、パロの軍勢は紅海に沈んだ。もしパロがへりくだって、プライドを捨て、イスラエルの民を行かせて、主を認めたならば、彼らは滅びずにすんだのだ。
ダニエル書(4章)に、バビロニアのネブカデネザル王が、このことについて身をもって体験した証がある。栄華を極めた彼が宮殿で気楽に過ごしていた時に、寝床で見た幻想と幻が彼を脅かした。その幻とは、どこからでもそれが見え、天にも届く大きな木が、獣や鳥を養っていたが、天から使いが『それを切り倒し、獣や鳥を追い払え。その根株に鎖をかけて、天の露にぬれさせ、草を獣と分け合うようにせよ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』と告げると言うものだった。ダニエルはそれを解き明かす。「木はあなたです。あなたの主権は地の果てにまで及んでいるが、いと高 き方によって、あなたは人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。木の根株は、天の支配を認めれば回復するから、貧しい者をあわれみなさい」と言うもので、一年後、ダニエルの言葉通りになる。ネブカデネザル王が宮殿の屋上を歩きながら「この大バビロンは、私の威光を輝かすため、私が建てた」と言ったその言葉が終わらない内に、天から「国はあなたから取り去られた。」と宣言があり、彼は、獣や牛のように草を食べ、天の露にぬれ、髪の毛は鷲の羽、爪は鳥の爪のようになる。やがて理性が戻り、彼はいと高き方をほめたたえて回復する。「私、ネブカデネザルは、 天の王を賛美する。そのみわざは高ぶる者をへりくだらせる。」
自分を高くする者はその高慢が罠となって、自ら、滅びを刈り取ることになってしまう。それが神の裁きの性格だ。
箴5:22「悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる。」
神は全てのすべてであられる方だから。
ヤコブ4:6…「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
(3)
1:54「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」
1:55「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
こうして、神の待ち望んだ真の王であるキリストの支配が表れたことを。それは彼女からさらにさかのぼること2000年も前の父祖アブラハムに対してなされた神の約束であり、ヤコブの息子たちであるイスラエル民族に、そして、イエス・キリストを信じる世界中の人たちにその救いと恵みと祝福が及ぶことを、彼女はその救い主の誕生を通して知ることになるのだ。
詩98:3 主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。
結び 1:56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。
※注 参考資料: 新約聖書講解シリーズ「ルカの福音書」 いのちのことば社 「ルカの福音書」バークレー 「新聖書注解」いのちのことば社 「実用聖書注解」いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「主に従う者に与えられる祝福の道」松木祐三 いのちのことば社 「内村鑑三聖書注解全集 第9巻 ルカ伝」 教文館 「一人で学べるルカの福音書」フルダ・K・伊藤 「受胎告知」キリスト教名画の楽しみ方 日本キリスト教団出版局 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル) 他