※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。
序 : 表題に「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」とある。これはサウルの妬みをかってダビデが逃亡中の出来事であり、その時の様子がサムエル記第一の21:10~16に記されている。
本論1 主を仰ぎ見る
(1)背景
Ⅰサム21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。
21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。
21:13 それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。
21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。
21:15 私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」
22:1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。
ダビデは上司に追われたので、ダビデとサウルの問題は、いわばイスラエル内部の問題だ。ガテはペリシテの町であり、ダビデが戦ったゴリアテの出身地でもあった。サウルから逃れるため敵陣に行ったということだ。サムエル記では「アキシュ」を「アビメレク」と表現しているが、それはいわば称号であって、「エジプトのパロ」とか「ローマのカイザル」と同じように、「アビメレクであるアキシュ」ということだ。
(2)今を生きる
「門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」とアカデミー主演男優賞なみの演技でその場を逃れることが出来た。
34:1 私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
そういう状況でこの1節を読むと「あらゆる時に」と言う言葉が、順境の時だけでなく、逆教の時でもとよくわかる。「(LB)何が起ころうと」「輝く日を仰ぐ時にも、雷(いかずち)が鳴り渡る時にも(聖歌)」主を称える。
「Ⅰテサ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあるので、私たちにもそうするように神は願っておられる。
母親は「このみ言葉だけを生きようとしている」と言ったが、それが出来ればそれだけで十分。過去を悔いたり未来を心配したりせずに、今共にいてくださる神が心配してくださっているので、その神に信頼し、今を生きることが必要ですし、
ロマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」というみことばも体得している必要があります。
(3)主を誇れ
34:2 私のたましいは【主】を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
34:3 私とともに【主】をほめよ。共に、御名をあがめよう。
ここを見るとパウロの言葉が重い浮かんでくる。
Ⅰコリ1:31「まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」
Ⅱコリ11:30「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」
(この時、パウロはダマスコの町の城壁の窓からかごでつり降ろされ、アレタ王の代官の手をのがれたことを回想している。)また、自分が病に苦しみ癒しを求めた時のみことば、
Ⅱコリ 12:9・10「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
34:4「私が【主】を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」「主を求めると」を「(LB)声の限りに私が呼び求めた時」と訳されている。金曜日に静まりに行ったのだがその時、バルテマイの癒しの個所だった。物乞いをして人々の憐れみによって生活していた彼が、主の通りかかるのを知って、「主よ憐れんでください」と叫ぶ場面だ。うるさいからとか言われても、彼は叫び続け、イエス様にお会いし、癒していただく。そこを読みながら、自分は果たして、主の憐れみがなければ生きていけない存在と思っているだろうか、思っていないから何か自分の力に頼ろうとしてしまうのではないか。もっとそれを知ったら思い切り主に叫べるのじゃないかと思った。それが18節に出て来る砕かれた心かもしれないと思った。
34:18 【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
ある開設には「石の心」の逆。
詩51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
本論2 神の恵みの素晴らしさ
(1)神の守り
34:5「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください。』」「(新共)辱めに顔を伏せることはない」「(口)そうすれば…恥じて顔を赤くすることはない」
34:6「この悩む者が呼ばわったとき、【主】は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。」
「この悩む者」を「彼」と呼んでいるが、それは丁度パウロが「(Ⅱコリ12:2) 私はキリストにあるひとりの人を知っています。」と言って、第三の天にまで引き上げられた自分の経験を語ったことに似ている。謙遜な表現だ。
しかし、生ける全能の神の前に生きるお互いの、一人の経験は、他の兄弟姉妹もまた信仰によって体験するであろうことだ。神の憐れみと恵みは一人一人に全く等しく注がれているからだ。
34:7 【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
Ⅱ列王6:13にはアラムの王が預言者エリシャを捕えようと、馬と戦車と大軍を送って夜に町を包囲する場面が出て来る。
朝、若い者がエリシャに、「ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言うと、
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
キリストが捕縛された時に、ペテロが思い余って大祭司の僕に撃ってかかり、片耳を切り落とした。その時、「(マタ26:52・53) 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」「(内村)私たちも天の万軍と共に戦うのであって、信者一人で世界に勝つはこのためだ」と言っている。
(2)主にある豊かさ
34:8 【主】のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
「(新共)恵み深さを」「(LB)神様を試してみたらどうですか。そして、どんなに…恵み深いお方か思い知るべきです」信仰は知って信じるのではなく、味わって信じること
自動運転の車が開発されているが、あれで試験な走行とはいえ、運転する時の気持ちはどんな物かなあと想像する。自分の手でハンドルを取るのが当たり前になっている私たちにはとても手放すことに勇気がいることだと思う。
34:9 【主】を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
「(新共)何も欠けることがない」「(LB)必要なものは一切与えられます。」出エジプトの40年間、会社で働くと言うこともなく、生命保険もなく、病院もなく、学校もなく、お店もなく、町もなく、その歩みを「あなたの衣は擦り切れず、足ははれなかった」と表現されている。天からのマナが与えられ、岩から水が湧き出た。申8:3「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」
私たちは毎日奇跡を体験しながら、それに気づけないような社会の中に生きている。
34:10「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、【主】を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
「(新共)獲物がなくて時にはひもじさに襲われます」「(内村)凶暴な政治家や実業家が位をはがれ資産を失って飢えるのを見た」朝ドラの「朝が来た」で一時は名を馳せた「山王寺屋はんも」時代か変わって夜逃げとなった。しかし、
詩37:25「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」
ロマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
神の豊かな糧を享受するほうが安定している。
(3)教育
34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう。
神がなぜ、ダビデに仕事も家族も失い、命を狙われて逃亡生活を送るという試練に会わせられたのかを考えればいろいろなことが言えるだろう。しかし、一つ言えることはその逃亡生活と彼に従う彼の仲間たちの共同生活の中で、釜を共にしながら、神から教えられた、様々な恵みを火を囲んで語り、イエス様と弟子たちにも似た、弟子訓練がなされたこと、その内容が、ダビデの詩篇として現代の私たちにも語りかけられているということだ。神のご計画ははかり知れない。「(LB)神様だけを頼り、信じてお従いすることの大切さを教えよう」
本論3 私たちの生き方
(1)口の災い
34:12「いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
34:13「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」
健康と長寿に限らず、本当の生きる喜び、人生の意義、生きがいを求めて、幸せになりたければ、ことばに気をつけなさい。これは本当に大切なことだ。
私達は本当に人の悪口を言うのが好きなのだ。誰かを悪者にすることで自分の正しさを保持したいのか、また、それを共通の意識として誰かと仲良くなりたいのか、しかし、神の前には皆、等しい罪人であり、五十歩百歩なのだ。しかし、私たちは気を付けなければならない。「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪を赦したまえ」と祈っているのだから。人の悪いところを見ずに、良いところを見ないと、話題が決して神様に喜ばれないものになってしまう。
「ネガポ辞典」と言うのが発売されたり、スマホのアプリになっている。約600のネガティブ語をポジティブに言い換える。ベスト5をご紹介すると、1位「いいかげん」→「おおらか」2位「気が多い」→「好奇心旺盛」、3位「付き合いが悪い」→「NOと言える」、4位「飽きっぽい」→「切り替えが早い」、5位「退屈」→「平穏無事」特に身近な人に対して、言葉でポジティブになりたい。
と言うのは詩篇には、いや聖書には言葉への注意が多い。ダビデは自分のいのちをねらうサウルを決して悪く言わず、殺そうとした部下に対して、何度も「(1サム24:6)主に油そそがれた方、私の主君にそのようにしてはならない」と言っている。
Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
(2)死からの救い
これらは、私たちの口と主の口のことであり、主の耳のことと言っても良いかもしれない。
34:15 【主】の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
ここには、主の耳が聞いておられるだけでなく、主の目が見ておられることを教えてくれる、そして、それはポジティブだ。
ペテロがこの言葉を引用して手紙に記している。
Ⅰペテ3:10「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」
34:16でも 【主】の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。とある。
その顔は必ずしもネガティブな顔でなくポジティブな顔でもあることを覚えてほしい。
34:17 彼らが叫ぶと、【主】は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
34:18 【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
特に34:21で「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。」とある。
ここには、自滅の原理が記されている。神がほろぼすと言うよりも愛の神に目を背けることそのものが自滅を生み出すのだ。「(内村)神は悪人を罰するに耐えず、罪をして罪を罰したもう。罪の必然の結果は滅亡である。死である罪の恐ろしさはここにある」
(3)救出
34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、【主】はそのすべてから彼を救い出される。
正しい者の悩みは多いのだ。クリスチャンに悩みがなくなるわけではない。むしろ多い。しかし、そのすべてから救い出されるのだ。
Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
特に「救い出される」ということばに、主の行動的な面を見る。S師のご両親の経験。ヘリコブターからの救出。様々な場面からの救出をダビデは経験した。そして、神は死そのものからも救い出してくださる。
ヘブル2:14「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
Ⅰコリ15:26には「最後の敵である死も滅ぼされます。」とある。死は死によってのみ滅ぼせる。
ヨハ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
このみことばは、兵士たちが十字架の主のすねを折らなかったことによって成就した。
34:22 【主】はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。
ロマ 8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
※注 参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社 詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部 聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館 「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社 「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社 「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社 「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社 「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル)