「礼拝の喜び」詩篇26篇(2015年07月19日)

※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。

序 : ダビデが、非難を受けていて、非常な困難の中で、神に正しい裁きを、求めている。25篇と同じように我が子、アブシャロムの反乱によって都落ちしているダビテの姿が思い浮かべられる。(他には、サウルに追われていた逃亡時代、2サム4章で、イシュボシェテがバアナとレカブによって暗殺された時に、その殺害にダビデが全面的に関与していたという風評に対して、身の潔白を主張した時などが思い浮かべられる。)

本論1 神に近づく
(1)天の法廷に訴える
訴えられた時に、人は動揺するが、もし、神の御前に、良心が恥じ入ることある場合、その訴えがまとえていて、その訴えを神様がその人を用いて示されるような場合、例えばダビデが姦淫の罪を犯して、それが表ざたにならないために夫を戦場で危険なところに遣わし、いわば法廷では訴えられないような、王としての権力を利用した完全犯罪をしようとした時、預言者のナタンがそれを指摘し攻めると言うことがあった。このような場合はダビデのように、悔い改めて、神の前に許しを乞うしかない。しかし、良心にやましいことがない場合、神様に訴えて神様が正しい判断、判決、裁きを下してくださるように私たちは祈ることが出来る。仮に、謀反を起こしたアブシャロムに追われたとすれば、その 時点では、権力によって訴えられ、追われているのであって、それを公に訴えて、裁判を求めると言うようなことが出来ないわけで、正しさを弁明する裁判所がないわけだから、どうしたって、天に向かって裁きを求めるしかないわけで、天に真の裁き主がおられ、全てをご覧になって正しい判断と裁きをしてくださることを信仰の目をもって見ていなければ、出来ない。真実、生ける神の裁きを期待する。それは、イスラエルを統一したダビデ王でさえ、そこに頼らざるを得なかった、またそれから1000年後に現れるダビデの子としてのイエス・キリストが十字架において、それを成した信仰が必要なのだ。(天の裁き主が全てをご覧になり、正しい裁きをしてくださることを期待する。)
Ⅰペテ 2:21「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
26:1 「私を弁護してください。【主】よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、【主】に信頼したことを。」「(新共)裁きを望みます」「(LB)私に対する告発を却下してください。」

(2)精錬
26:2 「【主】よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」詩篇の17:2に「私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。」と言う言葉があった。「(LB)厳しくお確かめください」「思い」「心」と言うのは「腎臓」と「心臓」という言葉らしい。「腎臓」は情、愛情、情念と結びつけられ「心臓」は意志、精神、二つを並べて、自分の本性とか、全存在として表現され、それを調べてくださいと言う。(なんでも鑑定団という番組がある。目利きの鑑定士が視聴者の宝を鑑定する。中島という鑑定士が有名だが、鑑定を依頼された壺などを、丁寧に手で持ったり、裏を見たりしながらあらゆる角度からそれを調べる場面がある。)そのように自分を見てほしいと言うわけだ。2節の「調べ」「試み」「ためして」と三つの金を練ることに関係する語だそうだ。「調べる」のは本性を透視する。「試みる」は検査して確かめること「ためして」は「火で溶かしてかなくそを分ける。」ことに用いられるそうだ。
詩 139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

(3)鉱石の中の宝
矢内原はこう言う。「鉱石を愛する者は「分析」「試験」「精錬」してその中に含まれる何万分の一、何十万分の一の金銀を採りだす。しかし、愛する者でなければ、その外観が粗雑なるがゆえにこれを捨てて瓦礫と等しくするだろう。粗野な自分の中にある、真実を愛し、これを採りだして、天使と人々の前に公示掲揚し給わんがためにわれを煉りきよめるのである。」(矢内原) 重箱の隅をつつくようにして。そこに一粒の金もなくても、キリストにある信仰を見出しうるように。神ご自身がからしだね程の信仰を見つけ出せるように、十字架による信仰によって与えられる、神の義を私たちに与えてくださった。つまり、恵みは真理であり、それはキリストを示している。26:3 あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。

本論2 礼拝の民
(1)悪しき者を避ける
それは、神を否定するこの世の風潮に流されないと言うことでもある。
26:4 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。
26:5 私は、悪を行う者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。
使「2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。」ロマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
もっと細かくいえば、誰かから誰かの悪口を聞いた時に、つい同調して、その人を支持することがないように、自分が悪口の防波堤になることだ。そこで「そうねあの人は」と言わずに沈黙することだ。なぜなら私たちはみな、人の目にある塵を採ると言いながら自分の中にある梁には気付かないものだから。生ける神が私たちと共におられるということは、そういう具体的な信仰によって現されなければならない。それでこそ私たちは神の子になれる。
自分の正しさではなく、自分の罪をも認めながら、神の恵みに寄りすがるということ、イエス様と共に生きることだ。そのことを知るために、一つの例を出してみよう。それは新約において、当時の旧約聖書を信じる宗教的な指導者たちが、イエスを非難する理由として、こう言ったことだ。「彼は罪人と一緒にいる」実際、イエス様は、売春婦や当時売国奴として嫌われていた、取税人と共に食事をした。このことをどうとらえたらよいのか。それは、自分の正しさを拠り所とするのではなく、自分の罪を認めながらも、神の恵みに寄りすがること、つまり恵みそのものである、イエス様と共に座る、共に食事をし、共に歩むということだ。イエス様を抜きにして、どんなに正しく生きようとしても、出来 ないことをこの出来事は教えている。それを6、7節が教えている。

(2)礼拝の目的
26:6 【主】よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。
これを今日流に考えれば、私たちはイエス様の十字架の血潮によって、衣を小羊の血で洗われ、つまり、罪を赦されて白くしていただき、十字架の恵みを覚えながら、救いの神を礼拝しようと言うことだ。
26:7 感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう
讃美と祈り、そして、神ご自身のなさった「(LB)奇跡を」「(文)すべて」「(口)ことごとく」証し、語り告げる者でいたい。
祭司が会見の天幕や祭壇に近づく時、天幕と祭壇の間にある洗盤で手と足を洗った。
○全勝のいけにえ=全き献身を表す。○和解のいけにえ=神との平和な交わりを続けるための献げもの、○罪のためのいけにえ=神に対する罪の贖い ○罪過のためのいけにえ=人間に対する罪、傷つけた他者のためへの賠償がなされた後、献げられた。 感謝の歌を祭壇をめぐって歌うこともあったようだ。

(3)天と地
26:8「【主】よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」
「(口)住まわれる…とどまる」「(LB)光り輝くこの宮を」「(LB)主ご自身から照り渡る目もくらむばかりのこの輝きを」「(岩)すみか(神殿)」「(文)とどまるところをいつくしむ」もしアブシャロムの乱が背景にあるとしたら、エルサレムを追われ、枕するところがないような状態で、エルサレムの天幕が思い出される。そこは神の臨在の輝きに満ちた、場、家だ。礼拝の場、また至聖所(ブリックス)教会の礼典、奉仕、集会は神に栄光が帰せられる場でもある。
 (ライト「クリスチャンであるとは」より) 聖書は天と地を必ずしも別世界として描いていない。神の存在される世界が天と表現され、人の世界が地と表現されるが、天は地と全く別で関係をもたないと言うことではなく。「重なり、かみあっている」とライトは言う。アブラハムは何度も神に会い、ヤコブはみ使いが、天と地を上り下りするのを見た。モーセは神の声を燃えつきないしばの前で聞き、イエス様によって天と地がむすびついたと言う。イエス様の働きの中心は、天をこの地にもたらすことであり、天と地を永遠に結びつけるためである。神が地に人となって来られ、神の国を地にはじめられた。私たちは「みこころが天で行われる通り、地でも行われますように」と祈る。
内村鑑三のことばが今の私の課題となっています。「後世への最大遺物より」「この世の中は、これは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神の世の中であると言うことを信ずることである。失望の世の中にあらずして、望みの世の中であることを信ずることである。この世の中は悲しみの世の中でなくして、喜びの世の中であると言うことを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物としてこの世を去ると言うことであります。その遺物は誰にも出来る遺物ではないかと思う。」つまり、キリストによって救われた者が、唯、天の国を待ち望むというだけの者ではなく、この世界で生ける神の恵みの中を真理の中を恥じ入らずに生きるということだ。

本論3 祈りと確信
(1)玉石混淆(こんこう)
しかし、私たちが神の御心に生きようとする場は、神に反抗する者たちもまた影響を及ぼしている場、玉石混淆(こんこう) 暴虐やわいろが平然と行われているような場でもある。それが私たちを困惑させている。
26:9「どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。」
26:10 彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。「(岩)」「(新共)汚れた行いに馴れ」「(文)あしきくわだてあり」「(岩)悪業」性的不道徳あるいは偶像崇拝(ダフド) またわいろは裁判を不正にゆがめる。キリストの十字架そのものだ。 
マタ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

(2)誠実に歩み
26:11 しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。
「誠実」とは「二心を持たない」ということだ。1節の「誠実に歩み」は完了形なので「歩んだ」とも言える。ここでは「歩みます」と未完了形で、ダビデの歩むという固い意志を表している。毅然とした態度と決心が伺える。(キドナー)
不信仰な歩みをしながら、「主よ主よ」と言うのもおかしいし、まじめに生きても憐れみが必要。人はベストをつくして神の恵みに信頼する 神の憐れみは、奴隷の贖いや代価として表現される。
Ⅰコリ6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい
最終的に、私たちを贖いだしてくださるのは、神ご自身の意志による。それゆえ、私たちも最終的には神様に信頼して委ねなければならない。その究極もまた十字架に見られる。イエス様の十字架上での言葉は7つ福音書に記されているが、最期の言葉は
ルカ23:46で「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」

(3)確信
26:12 「私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、【主】をほめたたえましょう。」
「(岩)わが足が平らな地に立つならば」「(新共)わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」「(LB)主はすべったり倒れたりしないように守ってくださいます。私はそのことを人々の前でほめたたえるのです。」
救いの確信、祈りが聞き入れられた確信がここにはある。だから後半で、「(文)もろもろの」「(口)会衆の中で」神様の約束の証人として証と感謝をささげようと願っている。
ヘブル 10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)