※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。
序 : 説教題を「御顔を慕い求めて」としたが、皆さんが、この詩に題をつけるなら、あるいは俳句や短歌を歌って感想を表すとすれば、どういう題をつけるだろうか。
「獅子の中、救われ給う、主の恵み、ダニエルの神の 御顔拝して」実際にダビデが獅子に取り囲まれたわけではなく、軍隊を率いて戦いを挑む敵を2節で獰猛な獅子のように例えているわけだが、獅子の穴のような絶対ピンチからも救い出されることを願って、御顔を仰ぐダビデの姿が描かれている。
本論1 ダビデの危機
(1)人を恐れない
27:1 「【主】は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」「(文)生命(いのち)の力なり」『私の光』のラテン語がオックスフォード大学の標語になっているそうだ。(講解)「闇」が罪、死、悪、失望を表すとすれば、「光」は正義、聖さ、善、未来、希望を表す。「救い」は、必ずしも、罪と死からの救い、地獄からの救いだけを意味しない。今ダビデが直面している危機からの救い。私たちが直面している危機からの救い。主が救ってくださるから誰も怖がる必要はない。子どもがいたずらっ子に対して、「お父さんに言いつけるぞ。お父さんは強いんだからな」と言っているようなもの。
1節に「だれを私は恐れよう。だれを私はこわがろう。」とある。
私の虫プロ時代に、私が尊敬していたアニメーターで、アフリカを一人で旅した人が、「怖いのは人間だった」と言った。実際に、人間に恨まれ、人間にいのちを狙われ、自分の命を奪うための戦争を仕掛けられたら恐れない人がいるだろうか。そんなに危機的な状況ではなくても私たちは人間を恐れる。箴29:25には「人を恐れるとわなにかかる。(しかし【主】に信頼する者は守られる)。」
しかし、私たちは人が自分に対してどういう評価をしているだろうかとそのことに敏感になり、そのことを気にするあまり、神様がどう思っているかより、人がどう思うかを自分の行動原理としてしまう。しかし、人がどう思うかではなく神様がどう思われるかを行動原理としたい。これは口で言うのはたやすいことだが、生活の場では結構な戦いとなる。
イエス様はマタ10:28で「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」
(2)敵は神に勝てない
2節で、あたかも獅子に例えられているかのようなダビデの敵とは、いったい誰のことだったのだろう。ダビデはペリシテと戦い、義父サウルに追われ、わが子アブシャロムに追われるということをその生涯において経験した。 敵は襲いかかったとたんに倒れてしまう。「(新共)さいなむ者が迫り…わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。」
神に頼る者を襲う敵が今にも襲いかかろうとするその絶体絶命とも思われる時に、彼らは倒れる。それは神に信頼する者を神が守っておられる事、また、神にある者を襲うことは神ご自身に敵対することであることを示している。サウロがダマスコのクリスチャンたちを迫害しようとした。
使 9:3「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。」
イエス様は教会を迫害するサウロがイエス様ご自身を迫害しているとおっしゃったのだ。
(3)神が味方なら
これを逆に言えば、神が味方なら何をも恐れることはないということだ。
ロマ書8章31節「…神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
27:3「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」「( 新共)わたしには確信がある。」
「(文)営を連ねて我を攻むるとも我になほたのみあり」「(LB)たとい大軍が押し寄せようとも」
本論2 救いの主への讃美
(1)隠れ場
そのような救いをダビデは5節で記している。
27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
神様が、私をかくまってくださったと。「隠れ場」は「(新共)仮庵」「(文)行宮(かりいほ)」と訳している。「幕屋のひそかな所」は「(新共では)幕屋の奥深く」神の臨在の象徴の場でもある至聖所、幕屋の奥の部屋、罪人がそのままでは入ることの出来ない、神の臨在の場「(NIV)he will hide me in the shelter of his tabernacle」とある。そして、不動の岩の上にあげてくださる。神こそが逃れの場なのだ。今列王記を読んでいるがイスラエルの王は危険が迫ると、他の強国と同盟を結ぼうとするのですが、神はそのような人間的なものを頼みとしないで、ただ私を頼みにしなさいとおっしゃる。
ダビデが追われている場を想像してみれば、現実的な願いである。天幕での礼拝への招き。
27:4「私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」「( 新共)それだけを求めよう…主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを」「(LB)主の宮で黙想にふけり、命ある限り主の前で暮らし、主の比類なき完全と栄光とを喜ぶ特権です。」「麗しさは恵み深さ。(新注)」
(2)神のもとなし
23篇でも学んだ。23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
砂漠では困った人を助け、もてなすことが習慣的にあったと言われる。子ども達との旅行。ルーツェルンでの体験。迷惑をかけたくないと、もてなしを断ることも。
しかし、もし神様がもてなしてくださるとしたら、それを断るということはもったいないことだ。イエス様が弟子たちの足を洗った時、
ヨハ13:8「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』
13:9 シモン・ペテロは言った。『主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』」この詩篇の4節にも詩篇の23篇にも「命の日の限り」とある。子供たちは、教会でずっとキャンプのように生活出来たらと。この世界で、苦しみと困難に取り囲まれながらも、敵に追われながらも、主の家に住む。毎週、教会に来ることの楽しさ、
(3)御顔を慕い求める
27:7 聞いてください。【主】よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
ペリシテ相手に勇猛果敢に戦っても、義父サウルや息子アブシャロム相手となれば苦悩ばかりとなる。(小畑) 人に聞かせる祈りをしていたパリサイ人たちのようではなく、ただ主が聞いてくださいと。 (スポルジョン)
27:8 「あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。【主】よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」
この聖句が最初わかりにくかった。「あなたに代わって、私の心は申します。」いったいどちらが言っているのかと思った。「わたしの顔を、慕い求めよ」とは神様の言葉だと思われるのに、いったいどっちがという思い。
「(新共)心よ、主はお前に言われる。『私の顔を慕い求めよ』と。」
「(文)なんぢらわが面(かお)を慕い求めよと(かかる聖言(みことば ) のありしとき)わが心なんぢに向かいてエホバよ我なんぢのみかおをたづねんといえり」「(LB) 『ここへ来て、わたしと話そう』このお声を私の心は聞きました。そして、こう答えます。『主よ参ります。』」「(口)あなたは仰せられました、『わが顔をたずね求めよ』と。あなたに向かって、わたしの心は言います。『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と。」
私はふと去年の決断を思った。私は自分の心の中に自分でも思いがけない心が湧き上がって来て、それを思いめぐらすうちに、神様からの声と受け止めた。そんなことがあったのかなあと。
本論3 私たちの勝利
(1)神の計画
27:9「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」「(新共)退けないで」「(LB)召使の私を退けないでください。かつて、試練に会うたびに助けてくださったではありませんか」「(NIV)you have been my helper」
「御顔を求めよ」と言って御顔を背け、会ってくださらないとすれば、それは苦しいだけだ。しかし、神は「求めよ。そうすれば与えられます」とおっしゃる。
エレ 29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──
(2)父母以上に
27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、【主】が私を取り上げてくださる。
イザ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」ダビデが、父と母から見捨てられたということではないだろう。しかし、仮に、愛する父母であってもどうすることも出来ないようなことがあっても、神ご自身は「(岩)私を拾い上げる。」
「(文)迎えたまはん」「(LB)勘当しても、主は迎え入れて慰めてくださる」放蕩息子
の父のように。
「過去の恩恵の記憶がよみがえる救いの記憶の恢復は祈りの力を百倍にする(矢内原)」
(3)まっすぐな道
27:11 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。「(新共) 平らな道」「(LB)敵が手ぐすね引いて待ち構えているのです。」
27:12「私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。」「(新共)貪欲な敵」「(LB)身に覚えのないことを、彼らは告発するのです。その一方ではいつも残忍な仕打ちをたくらんでいます」「(岩)虚偽の証人どもと暴虐な証拠人ども」キリストの裁判を連想させる。「ここでは、公正な、正直なまっすぐな道が望まれており、それはずるさという道の正反対です。単純、明快ということが天国の相続人にとって最良の処世術なのです。新しいエルサレムの住民は単純な人たちなのです。明白、単純、正直という道によって悪知恵をくじく。真実こそ、知恵そのものであり、「正直は最良の策」です。 (スポルジョン)」人を学歴を積んで、勉強、教え込まれるが、素直な人間力に勝る者はない。どこの職場に行ってもそこには人間関係があり、そこでの人間関係がまた、新しい道を生み出していくからだ。
27:13 ああ、私に、生ける者の地で【主】のいつくしみを見ることが信じられなかったなら──「(新共)わたしは信じます いのちあるものの地で主の恵みを見ることを」
「(岩)ヤハウェの恩恵にまみえることを」「生ける者の地は天国と解するも可(矢内原)」
「天国の饗宴の前味を(スポルジョン)」
結び 27:14 待ち望め。【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。【主】を。
詩人の心中の葛藤が勝利に(小畑)導かれ、他の葛藤いだく全ての人への励ましとして、「自分に倣え」と勧められている。主イエスの兵士なら、勇気を身につける大義名分がここにある。心を強くしていただき、主の恵みの力が覆うように待ち望み、力に満ちて生きるように(スポルジョン)」
※注 参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社 詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部 聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館 「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社 「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社 「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社 「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社 「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル)