2015年04月19日
「十字架の御旗を掲げて」 詩篇20篇
序 : この詩篇は、次の詩篇21篇とセットになっている。ダビデの時代は戦いがあると、その前に神様に勝利を祈願し、そして、戦いが終わると、戦勝感謝の礼拝がささげられた。この詩篇20篇は出陣する時の礼拝、そして、詩篇21篇は戦いから帰還した時の礼拝の詩篇と言われる。
今日、聖戦というものはない。つまり、神の御名によって戦争が意味づけられるということはない。確かに今でも、戦争は、それぞれが信じる神によって色々な理由付けがなされるということはある。しかし、キリストは愛によって十字架の上で究極の敵であるサタンとの戦いにおいて、勝利をされた。どんなに神の名によって戦われる戦いも、戦うことそのものが、すでに、滅びに定められたサタンの影響下にあると言うことであり、キリストと教会の戦いは、この悪しき霊に対する愛による戦いであることをまず心に据えてこの詩篇を読んでいきたい。
本論1 王のための祈り
(1)神のまえにへりくだる
表題に、「指揮者のために。ダビデの賛歌」とある。ダビデが歌った歌と考えると、わかりにくい。なぜなら、詩の中に王のための祈りがあり、この王はやはりダビデを指していると思われるからだ。しかし、この表題は、「ダビデのための賛歌」とも訳せるそうで、 (口語訳では)「指揮者のために」ではなく「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌」となっている。
「(岩注では)戦いに臨み、王と民とがこもごもヤハウェの祝福を願う「王の歌」」となっている。こういうわけで、6節までは、王に向かって民が祝福を願う祈りの言葉が綴られている。
詩20:1「苦難の日に【主】があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。」
「苦難の日」「危機の時」今戦いに望もうとしている時、王もイスラエルの民たちも命がけだ。生きるも死ぬも神の御手の中にある。兵士たちのいのちも王にかかっているとも言える。神がその王を守られるように。
苦難の時こそ神の助けを私たちは必要とする。神が王と私たちの祈りに答えてくださるように。「ヤコブの神の名」あの創世記に出て来るヤコブ、後にイスラエルと改名し、神の民、全イスラエルを代表するヤコブの神が、今、出陣しようとしているダビデ王を勝利者として高く上げてくださるように。
私たちを高く上げてくださるのは神様ご自身だ。私たちが自分で自分を高くしようとする必要はない。イエス様もマタ20:27で「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」とおっしゃった。自分こそが上になりたい、名をあげたい、高く上げられたいと必死になっている競争社会とは、全く違う生き方、あり方をイエス様は求められた。むしろ私たちは神のまえに徹底的に遜っていくのだ。キリストご自身が、ピリ「(2:7~9)」ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、…死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
Ⅰペテ5:6「…あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とペテロが記したとおりだ。
(2)礼拝と捧げもの
20:2「主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。」
戦争となれば、人間の力ではどうすることも出来ないことが起こる。その人間の限界の中で、助けられ、支えられるというのは、人間的なものを越えた神様によらなければならない。シオンの丘、やがて神殿が建てられるエルサレム、この幕屋で礼拝するダビデ王と王を支えて祈る民たちの必死の祈りがここに記されている。
20:3「あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえ(燔祭:口)を受け入れてくださいますように。
礼拝では、まず出陣に先立ってささげ物がささげられ、勝利祈願がなされ、礼拝をつかさどるレビ人と会衆が声を合わせて歌った。セラ(ここで、楽器と聖歌隊の歌がいちだんと高く奏でられた)
大体戦争になると、歩兵が最前線に立ち、王は一番安全なところに護衛付きで陣取る。しかし、王としてふさわしいのは先陣を切って戦う王だ。ダビデはいつも先陣を切って戦っていた。しかし、ある時、部下にだけ戦わせて、誘惑に陥り、姦淫の罪を犯してしまう。王が先陣を切る。
私たちの王であられるキリストも、悪魔との戦いにおいて先陣を切って戦い、十字架によって、勝利をされた。このキリストの父なる神へのささげもの生贄は、ご自分の聖いその生涯と十字架、ご自分のいのちそのもの、それが献げものとされた。
(3)はかりごとを遂げさせ
20:4「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。」
大河ドラマのような時代劇では、例えば秀吉が、戦いの前に、石田三成と黒田官兵衛にどう戦ったらよいか意見を求めると言うような場面が登場する。聖書の時代も同じだ。最終的には王が決め、その作戦を実行させる。(サムエル記には、ダビデが息子のアブシャロムに追われる場面があるが、ダビデに従うフシャイが、わざと、アブシャロム側について、アブシャロムの軍師アヒトフェルの作戦を助言によって変える場面がある。)
とにかく、戦いの前に、王のはかりごとが全員に伝えられ、その作戦が成し遂げられるようにと祈る。
教会の話し合いも同じだ。牧師の願い、あるいは相談してのみんなの作戦があるわけで、それが神さまの助けによって成し遂げられていくように。牧師も、教会の人たちも、皆、神への礼拝の中で祈っていくということだ。
本論2 王と民たちの関係
(1)勝利の旗
20:5「私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。【主】があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。」
この言葉には、祈りながら、すでに、勝利を確信した、信仰の先取りが伺える。礼拝している全会衆がすでに勝利の予感を感じているのだ。(小畑) だから戦う前から勝利を喜び歌おうと言うのだ。
ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
Ⅰヨハ5:14「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
神は「(エペ 3:20)…私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」だ。
「旗を高く掲げる」と言う言葉からは、橋頭保を連想する。占領した地に旗を掲げる。硫黄島の像のように。教会の屋根には十字架が掲げられている。これは旗を掲げている。私たちはキリストの十字架を見上げて生きていく。十字架の御旗によって戦う。「見よや十字架の旗高し(グールドの讃美歌)」という讃美がある。キリストの十字架こそ、神が勝利された旗だ。それを掲げて私たちは生きていく。
(2)王の願いの通りに
「20:5…【主】があなたの願いのすべてを遂げさせて(満たして:岩)くださいますように。」「(4節にも)「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。」とあった。
「(LB)あなたの祈りが、全部答えられますように」これは王である者が自分のやりたいことをやれるという単純な祈りではない。人の心には罪がある。例え王であれ、罪人が自分の願いだけを追い求めたら、世界はめちゃくちゃになってしまう。これは私たち罪人がイエス様を信じ、神の霊、御霊が、私たちの内に住んでくださる時、初めて言えること、御霊によって可能になることだ。御霊は私たちの心そのものを変え、聖めてくださるからだ。
サムエルがサウルに油を注いだ時にこう言った。
Ⅰサム 10:6「【主】の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」しかし、サウルに注がれた神の霊は後に去ってしまう。しかし、新約時代の聖霊は私たちを去るということはない。
イエス様は弟子たちにこうおっしゃった。
ヨハ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」つまり、王にはしっかりと神と結びついている、神を見つめているという姿勢がどうしても必要なのだ。
(3)信頼関係
ここに信頼関係で結ばれた、王と民の理想の姿がある。これが王と民、政治家と国民、牧師と信徒、先生と生徒、親と子、夫と妻にも当てはまる。
「(内村)君臣、師弟、親子の差別は厳然として、存してしかも差別の下に動かすべからざる信頼和合の岩の横たわるを見る。民主国の民は嘲りて言う。君臣師弟と言うがごときはこれ未開時代の制度の遺物である、今や四民平等、臣は君だけ貴く、弟子は師に劣らずと。あるいはしからん。されどもエホバにより頼む者はあえて差別の撤廃を求めない。今日の地位このままにてわれらは麗しき相互的関係に入ることが出来る。」現代の教会には民主主義的要素が多分にある。それは独裁的にならないための知恵。しかし、教会は民主主義ではない。牧師は民の意見を平等に生かすだけではだめ。神を見なければならない。信徒も牧師も神を見る。ダビデは神のまえにひたすら礼拝し、民たちも共に礼拝しながら、そこに王と民たちの信頼の絆が神によって確かなものとされていく。それが、立場を変えた社会の理想。
戦時下のドイツと日本の教会にとって最も大きな問題は、ロマ書の13章だった。神が立てた制度に従うということはヒトラー政権でどのように適用されるのかという問題だ。しかし、それは民のあるべき姿であって、王にもあるべき姿がある。夫の方から「妻は教会がキリストを愛したように夫を愛すべきだとは言えないし、妻の方から「夫はキリストが教会のために命をささげたように妻を愛するべきだとは言えない。」自分の中にある梁には気付かずに人の目にある塵を除こうとする、私たちの性質はそのように言いたくなる。戦時下の教会はいわば、聖霊が去った時のサウルに仕える家臣たちの苦悩を味わったのだ。互いに愛し合って初めて、素晴らしい関係が実現する。互いになのだ。
本論3 十字架の旗を掲げて
(1)油をそそがれた者の救い
6節から、主語が単数になっていて、王の答えが、祭司か預言者によって宣言されていると思われる。
20:6「今こそ、私は知る。【主】は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。」
2節に記されていたシオンの聖所からの助けが、ここでは、天自体からの助けとなっている。ここで「【主】は、油をそそがれた者を、お救いになる。」の「油を注がれた者」が岩波訳では「メシヤ」となっている。ダビデは油を注がれた王としてメシヤ、キリストを予表する王として立てられている。
イエス様が十字架におかかりになった時、「神の子なら、自分を救ってみろ」と多くの者が、ののしった。しかし、主は辱めをものともせずに、私たちのために身代わりとなって、それを忍ばれた。その死は、そこにいた全ての者たちにとっては、神の助けはなかったかのように見えた。しかし、父なる神の全能の御力は、三日の後に、キリストを死者の中からよみがえらせるということを通して、真の命の救いを実現した。ここの「私は知る」「お救いになる」という言葉は完了形であり、未来を確信した言葉だと説明されている。キリストは、父なる神がよみがえらせてくださることを確信して、死ぬと言う大切な仕事を成し遂げられた。このキリストの十字架と復活によって信じる全ての人の救いが成し遂げられた。キリストは先陣を戦われ、そして、勝利を取られた。しかし、滅びに定められたサタンは今も必死に自分と共に滅びるものを集めようとしている。戦争は既に終わったのに、小競合いが続いている。地上の戦いにある教会は、かしらであるキリストの勝利にあずかる戦いを戦っている。パウロはコリントの人に宛てた手紙でこう言っている。
Ⅱコリ2:14「…神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」
ダビデの救いの確信は、キリストの復活への確信につながり、それは私たちの救い、私たちの復活にもつながる。私たちもまた、油注がれた者だ。Ⅱコリ1:21に「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」とある。ここに、私たちの勝利とよみがえりの希望がある。
(2)主の御名を誇る
20:7「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、【主】の御名を誇ろう」。
多くの国が、国威を誇って何をするかといえば、軍事パレードだ。機械のように人間が行進したり、ミサイルのような武器が、次から次へと進んでいく。それを支配者が敬礼しながら見る。閲兵式 戦車と軍馬はアモン人の戦力の特色なので、アモン人との戦いが背景にあるのかもしれない(小畑)
律法は、イスラエルが常備軍を持つことや、王が多くの馬を持つことに反対している。しかし、この後、ソロモンは軍備を拡張してしまう。(Ⅰ列王10:26~29には)、エジプトから戦車を一千四百台、馬、騎兵は一万二千人が彼のもとに集まる。
純粋に主の名だけを誇るのではなく、何か、自分の力を示すようなものを誇るということは今日の私たちにもよくあることだ。
「【主】の御名を誇ろう」価値ある絵は、それが本物であるという、直筆のサインがあるかどうかが大切だ。自分の持ち物には、自分の名を書く。これは私の物だという印だ。私たちにはイエス様の名が記されている。これは、私の物だというふうに。イエス様の名は全ての名に勝る名だ。(ヨハ17:6ではイエス様がこう言っている)「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。…」。イエス様は(ヨハ14:14では )「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とおっしゃっている。だから私たちは「イエス様のお名前によってお祈りします。」と祈りを結ぶ。
「御名を誇ろう」の「誇る」という言葉は「呼ぶ」「記録する」「覚えさせる」とも訳せるそうだ。私たちは私たち自身が記憶され、覚えられるというよりも、私たちにつけられている神の御名、永遠にこの主の名が記録され、憶えられることを願うのだ。
(3)まっすぐに立つ
20:8「彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。」
ここでは、かつての戦いが回想され、勝利が明示されている。かつて、ダビデはペリシテの代表戦士であったゴリアテと戦い、こう言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」そして、この3メートル近くある巨人ゴリアテは剣や槍によらず一つの小さな石によって倒された。そして、少年ダビデはイスラエル軍と共にまっすぐに立ったのだ。
私はこの「立ち上がり、まっすぐに立った。」と言う言葉が心に残った。良性突発性頭位めまい症で立ったり、寝たりすることでめまいがする。「立ち上がる」とか「まっすぐに立った。」と言うのが現実的に本当に願いなのだ。「(LB)大地に根を下ろしてびくともしません」「立ち上がって励まし合った(岩)」
結び 最期に緊迫感の中で集まった戦士たちが王の救いと勝利への嘆願をもう一度して、出陣していく。
20:9「【主】よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」「王に勝利をお与えください(LB)」かつてヤコブは神の言葉に答えてこう言った。「(創35:3)…私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」王と民たちが、夫婦が、牧師と信徒が、先生と生徒が、師匠と弟子たちが、苦難の中で共に神を礼拝し、祈り、そして、立ち上がっていくのだ。
※注 参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社 詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部 聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館 「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社 「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社 「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社 「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社 「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル)