「沈黙の呼びかけ」詩篇19篇 (2015年03月15日)

2015年03月15日
「沈黙の呼びかけ」詩篇19篇

序 : 詩篇19篇は大変親しまれている詩篇だ。聖書を学ぶ神学校では「神の啓示」を学ぶ時に必ず取り上げる詩篇だ。啓示と言うのは「隠している覆いをとる」という意味があるが、覆われていてわからなかった神が、その覆いを取って、ご自分を私たちにお示しになると言うことが啓示だ。覆いを取られると、神様の力や、み思い、また私たちへの愛の関わりが表されてくる。前書きでダビデの作ということを確認して本文を見て行こう。

本論1 神は自然の中に語られる。(1~6)
(1)被造物によって
まず第一は、1~6節までに記されている、この宇宙、世界によって神様はご自分の力を私たちに知らせているということだ。それらは全て、神が仰せられてそのようになったと創世記の最初に記されている。神様のご意志で、神様の言葉によってこの世界は創造された。だから、ユダヤ人の言葉には「自然」と言う意味の言葉がないとある本に書いてあった。神様が創造された世界という意味で「被造物」という意味がそういうものを表す言葉の土台にあると言うことだろうか。内村鑑三は「自然」と言う言葉ではなく「天然」と言う言葉を使う。昔の曲に「美しき天然」という曲があるが(チンドン屋が良く演奏)、あれは本当にこの詩篇のようで、讃美歌のよう。○(1)「空にさえずる 鳥の声  峯(ミネ)より落つる 滝の音  大波小波 とうとうと  響き絶やせぬ 海の音  聞けや人々 面白き  この天然の 音楽を  調べ自在に 弾きたもう  神の御手(オンテ)の 尊しや」(田中穂積作曲、武島羽衣作詞 私立佐世保女学校の音楽教師だった田中は、九十九島の美しい風景を教材)
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
ダビデは羊飼いの経験がある。昼は丘に羊を導き、夜も、あのベツレヘムの出来事があった日のように夜番をしたこともあっただろう。雲も風も雷もあったが、今のように電気もスモッグもpm2.5もない時代だから、晴れ渡った夜には無数の星を見つめたことだろう。都会にいるとその鮮やかさは鈍くなっているかもしれないが、アダムが見た太陽や月と同じ太陽と月をイエス様も見ていたし、私たちも見ている。確かに、神様が創造されたこの宇宙世界の素晴らしさは広大無限で、また、微に入り細に入り、落ち度なく、欠けなく、手抜きなく、それは小宇宙と言われる私たち自身の人体にまで及んでいる。「クリスチャン科学者たちは望遠鏡を見ながら神を認め、顕微鏡を見ながら人の道を見出していた(内村)」。

(2)呼ばれる神
その神の創造された宇宙世界があまりにも素晴らしいために、日本を含めて世界中に、被造物、世界そのものを礼拝する行為が蔓延し、汎神論的世界観が生まれた。汎神論
というのは、全ての物が神そのものであると考えるような世界観だ。大きな立派な木にはしめ縄がかけられ、強い横綱にもしめ縄がかけられ、山の上には祠が建てられ、日の出を拝む。月は月讀神社、太陽は天照大御神として拝まれている。ギリシャ・バビロン・エジプトしかりだ。しかし、ダビデはそれらを創造された神に栄光を帰して、天は神の栄光を物語っているし、大空は神の力ある御手のわざを告げ知らせているのだと言う。パウロの言葉を思い出す。「(ロマ1:20)神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
19:2「昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」神様は一日という単位を私たちの生活に与えられた。一日一日を積み重ねて、それぞれが一生を送る。アダムもイエス様も一日、一日を寝て起きて過ごされた。
私たちも一日一日を生きていく。一日一生だ。こうして、昼は昼へ、夜は夜へと繰り返す中にも、神のことが話され、神についての知識が示されていく。2000年の教会の歴史もそのことの証だ。
19:3「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。」神ご自身の声が聞こえるわけではない。
19:4(2行目まで)「しかし、その呼び声は(雷のように)全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」世界のどこにいても、神の無声の声、無音の音楽を聴けないところはない。そして、神は誰を呼んでおられるのか。それは人間だ。あなたであり、私だ。子どもが行方不明になったら、親は必死に呼んで探すだろう。失われた羊を求める羊飼いのように、神は呼んでおられる。パウロが言ったように、使17:27・28「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。…」。

(3)太陽
19:4(3行目)「…神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。」
19:5「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。」
 ダビデは、宇宙世界の中でも、とりわけ引き立っている太陽に目を向ける。「神が太陽のための幕屋を設けられた。」というのも一日と言う単位を表しているのであって、太陽がどこかで人間のように休んでいると考えたわけではない。当時、暦もあったし、その走路、つまり軌道も知られていた。
当時の結婚は、盛装した花婿が部屋から出て花嫁を迎えるために彼女の家に向かう。その道中はお祭り気分で、明るさと輝きに満ちている(キドナー)」
19:6「その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」
以前、入院した時、朝、まだ暗いうちに病院の4階の東側の端まで行き、日の出を見た。椅子に座ってじっと待った。どのへんから上がるのだろうと思っているうちに薄明るくなり始めた空に光の筋ができ、一箇所が火のようになり、その明かりが益々赤くなってついに顔を出しゆっくり昇りきると、薄暗闇の中で、遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる、そんな町並みが、少しずつ照らし出され、世界が明かりに包まれていった。いったん昇ると「踊り出してあとは天空を駆け巡りゴールを目指して全力疾走する陸上選手のようだ(小畑)」
口語訳は「その暖まりをこうむらないものは何もない(口)」(文もほぼ同じ)とあり、この方が被造物が神の愛をも表していることが良くわかる。
このようにして神は被造物によって語られるのだ。ローマ1:20「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

本論2 神は聖書の中に語られる。(7~11)
(1)聖書
さて7節から急に語調が変わる。星野富弘さんの作品に例えると、絵の部分から詩の部分になる。神と言う言葉も今まで「エル」という「天地創造の力ある神」を表す言葉から「ヤハウエ」、エデンの園での契約の神への呼び方に変わる。モーセに表わされた神の呼び名、私たち人間を愛し関わられる神、日本語では「主」と記されている。
19:7「【主】のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、【主】のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」
19:8「【主】の戒め(規律)は正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」
宇宙世界にも星や月や太陽や山や海があるように、神ご自身についての真理がそれを表す様々な言葉で表される。
 神様ご自身が、人間に「みおしえ」を与えておられる。神の法、神の意思(み思い)の全て、それは「完全」で「たましいを生き返らせる」。被造物は一般啓示、つまり全ての人に与えられている啓示、この部分は特別啓示、神を信じている人に与えられた聖書の言葉と説明される。実際に、律法はイスラエルの民に与えられた。そして、今の時代は全ての人に聖書が与えられている。聖書もまた、神ご自身ではないが、ちょうど宇宙世界が神ご自身を表しているように、神から直接言葉を聞いた預言者が書き残した書物や、神に導かれた人たちの書いたものが用いられて神ご自身の栄光を表している。そして、被造物が全く非の打ちどころがないように、聖書の言葉も完全で誤りがない。

(2)私たちを生かす
また神は私たち人間に対して「あかし」を持っておられる「證明、契約(矢内原)」それは「確か」なので「わきまえのない」「無学の」「人の言葉に動かされる(KGK)」「しっかりしていない、ふらふらしている(矢内原)」「どちらにでも染まる(講解)」そういう人を「賢くする(7)」。学歴が何もなくても、み言葉に生きるなら、学力に勝る知恵が与えられる。また神は権威ある「戒め」「教訓(矢内原)」「なすべき決まり(講解)」を与えてくださるが、それは「正しい」ので私たちがそれに服従する時、その心はあたかも新郎が部屋から出る時のような喜びに満ち溢れる。そして神の「仰せ」「命令(矢内原)」を素直に仰ぐなら、それは「きよいので」私たちの「目を明るくする」
19:9 「【主】への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」
主を敬い畏む恐れは、私たちを服従へと導き、主の「さばき」「ご判断とその処置」は、「神のみことばが全て真実であることを示す。(小畑)」人が必ず死ぬということは、「あなたがたはそれを食べる時必ず死ぬ」とおっしゃった神様の言葉が、約束通りこの身にもなると言うことであり、「信じる者は死んでも生きる」とおっしゃった信者の復活もまた必ずこの身になるのだ。
ここを読むと、神様が私たちに願っていらっしゃることがよく分かる。神様は私たちの魂を生き返らせたい。死んでしまったような状態、魂のマンネリ、感動のないうつろな状態から生き返らせたい。またわきまえがなく、人の痛みが分からず、人の心を自分の心と出来ない。思い過ごしや、誤解やすれ違いの連続のような人間関係に終止符を打てるような賢さを与えたいと願っておられる。不安に襲われて、行く先を憂いてばかりいる者に、喜びと、明るい目、将来を希望を持って生きることの出来る信仰の目を与えたいと願っておられるということだ。それは神の真理の呼び声によって与えられる。

(3)その麗しさ
19:10「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」
19:11「また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」
「戒め」とか「さばき」というと、縛られる印象を持つかもしれない。実際、11節の「戒め」は「警告」の意味もある。しかし、10節の言葉は、そのような私たちの印象がどんなに誤解に満ちたもので、その内実は私たちが心から求めてやまない素晴らしいものだと言うことを表している。アスリートたちが求めるメダルの素材である金、豊臣秀吉が茶室に貼った金、金閣寺の金、ソロモンの神殿に満ちていた金、しかも、火によって濾過し不純物を取り除いた純金よりも好ましいというのだ。
ハチにどんなに刺されても、絶壁の上にあるはちの巣を取る人たちがいる。それを探し当てて商売にする人たちがいる。乾燥したパレスチナでは香りの高い花が多くその蜜も甘いそうだ。イスラエルは蜜の流れる地と言われた。その蜜よりも甘いと言われる神の真理。それは私たちに重荷や拘束を与えるどころではなく、決してこの世が与えることの出来ない素晴らしく、好ましく、魂に味わいを与えるものなのだ。
「輝く月も、星も、太陽が昇れば消えてしまう。しかし、その太陽も、み言葉のまえには顔色(がんしょく)を失う。太陽がどんなに人を生かし、喜ばせ、照らすとしても、み言葉のそれは、完全で、確かで、正しくて、きよい。そのみ言葉がもたらす最大の知恵は主を恐れること。(小畑) 」

本論3 神は心に語られる(12~14)
(1)良心
19:12「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」
さて、神の啓示に3番目として、人間の良心をここに見ることも出来る。カントは「心を満たす感嘆と畏敬は、頭上の星のきらめく天空と内なる道徳律である」と言ったそうだ。神は人間の心に語り掛けるということだ。良心は全ての人に与えられている一般啓示と言えるかもしれない。人間が最初に神に似たものとして創られたことや「人間には神にしか埋めることの出来ない心の空洞がある」という有名な言葉にも関係しているのかもしれない。スイスで畑にいた時に5才くらいの子どもに土を投げかけられたことがあった。いくら言ってもやめようとしない。そこで、私が神に祈ると、その子はびっくりして空を見上げ神を怖がる表情を浮かべたのだ。良心を土に例え、そこに神の言葉の種が落ちると、それぞれの実を結ぶというイエス様の例えに合わせて考えることも出来るかもしれない。
人間には自分では気がつかない罪がある。人を見ればよく分かっても自分の罪はわからない。自分が誰かに傷つけられたと感じても、その人は加害者意識を全く持っていない場合もある。同じようなことは自分にも当てはまるわけで、自分が知らないうちに、人を深く傷つけることもあり得る。
 普通に生きていても神様に喜ばれないものを持っている私たち、そして、全てを知っておられる神様は憐れみと恵みに富んでおられる。全ての罪は神に対する罪でもある。それゆえダビデはその赦しを祈る。

(2)悔い改めに導く
19:13「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」先ほどは「知らないで犯す罪」だったが、「傲慢の罪」は「悪事と知りつつ犯す罪」「(文語訳では)故意(ことさら)の罪」「私を支配しませんように」と言う言葉は「(文)わが主たらしめば、大いなるとがを犯すに至らん」となっている。つまり傲慢の罪が自分の主人になってしまい、自分はその奴隷となってしまう。そうなると罪は習慣化し、「大きな罪」となる。この大きな罪は、神を神として認めず、無視し、神なしで生きると思い込んでしまう自己中心だ。
イザ 1:2「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。」
罪は気が付いた時点ですぐに摘み取ることだ。テントの中にラクダが鼻先を入れた時、まあいいやとそのまま寝ていると、顔をテントに入れて来る。それでもまだいいやと寝ていると、身体ごと入れてきて、テントごとひっくり返ると言うこともありうるのだ。クリスチャンにもこのような大きな罪への罠がある。ダビデは神がそのような罪から守ってくださるよう祈る。

(3)神は御子において語られる(ヘブル1)
19:14「私の口のことば(行いをも含む:内村)と、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように (喜び受け入れられますように:岩)。わが岩、わが贖い主、【主】よ。」
「聖書を読み、学ぶということの目的は私たちの魂の太陽を探すことだ。太陽の光が差し込むと隠れて現れないものがないように、神の真理は人の心の奥深くまで照らし、心の中にある、隠れた過ちをも見出す。しかし、同時に私たちを神により頼ませて、脱出への道も開いてくださる。(要約:内村)」そして、その大きな光によって、私たちの口の言葉と心の思いを聖くしていただき全能の神に受け入れられる者にしていただく(内村要約)」この「受け入れる」という言葉は「本来、生贄が神の求めに従って落ち度なくささげられることを意味する(講解)」
「贖い主」と言う言葉はキリストを連想させる。旧約の時代でも例えばヨブは、
ヨブ19:25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」と告白した。
啓示の第4番目として、最期に、神は御子において語られたと言うことがある。これは特別啓示であり、十字架が公に歴史の中に立ち、聖書と福音によって語り伝えられていることによっては一般啓示としての性格も持つ。実際に神は人となって私たちに語ってくださったのだ。ヘブル1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」このお方こそ、真の太陽だ。イザヤはキリストの到来をこう予言した。9:2「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」つまり、キリストが人として来られたのは、霊的な真の太陽が来られたことだ。この神の真理だけが真に人に悔い改めを与え、聖める。バルトはクリスチャンを「暗幕を張った部屋の中で、すでに日が昇っているのにそれを知らない人たちに本当はもう日が昇っていることを伝える人たちだと例えた。やがて新天新地の日には太陽も月もいらなくなる。黙21:23「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」

結び 私は、クリスチャンが、生ける神の存在に疑問を持ちながら生きる信仰から、よみがえりの信仰、新天新地に生きる信仰へと変えられたらどんなに素晴らしいかと思った。それは、夜道をともしびを持って歩むような信仰生活から、太陽の中を歩くまっすぐに歩く信仰生活への変化だと思う。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)