序 : 詩篇18篇を2回に分けてお話している。前半はダビデが死の罠から助けを求め、救いを祈り、神様が助けてくださったという内容だった。今日見る後半はダビデがイスラエル全体を統一し、さらに近隣諸国を支配していく様子が描かれている。クリスチャンの信仰生活に例えれば、罪から救われた感謝と喜びが前半に、救われた者としてその恵みを他の人たちにも伝えていく伝道。それを神ご自身が導いて成し遂げてくださる。そういうことを思い浮かべることが出来るので、私たちに元気と力を与える詩篇だ。今日も1節、1節を詳しく見ないで少しまとめてお話します。①「神様がダビデを助け出してくださったわけ」 ②「神様がどのようにダビデを用いて、ご自分の支配を確立されたのか」 ③「宣教とその目的としての賛美と礼拝」という順序でお話する。
本論1 神様がダビデを助け出してくださったわけ(25~27)
(1) 同じ神の御名を呼びながら
この18篇はほぼ同じ内容がサムエル記第2の22章に記されている。だから、サウル王の支配が終わり、ダビデがイスラエル全体の王権を確立した時のものと思われる。それを端的に表しているのが、18:43なのですが、その「あなたは、民の争いから、私を助け出し」と言う言葉は、サムエル記の方では「あなたは、私の民の争いから、私を助け出し」私を国々のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。」となっている。つまりイスラエル内の内乱からの救いなのだ。もう一つ気になるのは、41節で敗走した敵が「…【主】に叫んでも、答えはなかった。」という一文だ。神はダビデを立ててイスラエルを統一されようとしたが、それを望まず、エゴや権力だけで、そのご計画に逆らう、つまり神に逆らう、神の民たちがいたということだ。どこに所属しているかとか、誰について働いているかということは問題ではない。とくにここでは権力と結びついた力への所属が救いを保証するのではなく、生ける神ご自身に従うということが大切だと思わされる。「(マタ7:21) わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
(2) 生ける神に対する態度。
18:25「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、」
18:26「きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。」
ここを読むと、あたかも神は鏡のような存在に思える。他の個所にも「(Ⅰサム2:30)
…わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」とある。しかし、27節を見ると、ただ、鏡のように、私たちを映し出す存在ではないことが分かる。
18:27「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。」悩む民に対して、ご自身も悩まれて、私たちの悩みを映し出すというだけではなく、そこから力をもって「救われる」という具体的な関わりにつながる。高ぶる者に対しては高ぶる者となって、その高ぶりを映し出すと言うだけでなく、その高ぶる目を低くされる。砕かれると言うのだ。だから単に映し出すのではなく、私達に、正面を向いて、具体的な生きた関わりをなさる。生ける神様は、私たちの神様に向かう態度、言葉、祈り、服従をご覧になって私たちに働こうとされている。
問題はこの生ける神に対する私たちの信頼がどのようなものなのかということだ。
(3)神と私たちとの関係
「きよい者にはきよく…(26)」の言葉をもう少し考えてみよう。神に近づく者に神も近づく。キリストといつも一緒にいたペテロとヨハネとヤコブだけが、変貌したキリストの栄光の御姿を拝することが出来た。私が思い浮かべた二つの聖句がある。一つは「(レビ10:3でモーセがアロンに伝えた主の言葉だ)…『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』…」これは私たちにとって重い言葉だ。神様はご自分の聖さを、ご自分に近づく者によって現すと言うのだ。欠けだらけの12人の弟子たちに全世界への福音を委ねたイエス様のようだ。ルターは語ります。「あなたは聖なる者には聖なる者となられる。なぜなら聖なる神の近くにいる聖徒は、聖さを自分のものにしないで、ただ、神のものにするからである。そして、彼らは真実の告白によって、自己の財産として、罪のみを自分自身のものにする。聖徒はこのような人にほかならない。聖徒がすべての聖さを神におく、このような真理の告白こそ、この聖さをこれらの聖徒に戻して彼らを聖なる者とする。なぜなら、真理は神に真に聖ならしめるからである。(小畑)」ルターの信仰義認をくだりを読むようだ。神の義が私たちを義とする。
ダニ9:7「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもの…」とある。
神様がダビデを助け出してくださったのは、絶えず、神様に近づき、ダビデもまた全ての栄光を神に帰していたからだ。
本論2 神様がどのようにダビデを用いて、ご自分の支配を確立されるのか(28~45)
(1)霊的な戦いへの武装
次に、神様がどのようにダビデを用いて、ご自分の支配を確立されるのか(28~45)を見たい。今見て来たような神に対するダビデの態度はなにやら血なまぐさい印象を与える戦闘の様子からも実は伺えるのだ。彼の神への信仰と祈りは、書斎に閉じこもっている学者の信仰でもなく、山にこもり、修道院で祈る祈りでもない。日々戦いの中での神への信頼と祈りだ。
とはいえ、現代においては、ここに記されたような聖戦、神が味方してくださる戦争があると認めるわけではない。内村鑑三は日清戦争では聖戦論を主張するが、戦争体験後は決して聖戦はないと日露戦争の時に非戦論を展開する。キリストが十字架によって全人類の罪をその身に負って死んだのは、「(エペ2:15・16) ご自分の肉において、敵意を廃棄し葬り去って、隔ての壁を壊し」異なる者が互いに愛し合って一つとなるためだった。だから、18:34の「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」と言うような言葉は、今日私たちは霊的な戦いへの武装と考えたらよいと思う。エペ6:11~18にあるように、私たちは悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けるように勧められる。「神のすべての武具をとりなさい。しっかりと立ち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。信仰の大盾を取り、救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。どんなときにも忍耐の限りを尽くし絶えず目をさまして御霊によって祈りなさい。(要約)」とある。
(2)神の謙遜
実際のダビデの支配の確立を、神はどのように導かれたのか、それを最初に見た「私たちを映し出すかのような神」という観点で考えてみたい。特に35節の言葉に注目したい。
18:35「こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。」
内村鑑三は「この『神の謙遜』の一言だけでこの詩篇に尊き真珠の価値がある。」と言う。「(内村) 謙卑、または謙遜といえば弱い人間に限る徳であるように思わるるが「神の謙遜」と聞いて、我らはおどろかざるを得ない。…強き神の子と呼ばるる主イエス・キリストはご自身についていいたもうた、「われは心柔和にして、へりくだるものなり」と。神がへりくだるものであればこそ、私のごとき卑しきものを顧みたまいてこれに救いを賜うのである。…キリストの受肉そのものが、神の謙遜だ。イエス様は弟子たちの足を洗い、ヨハ13:14「…主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」とおっしゃった。そして、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さった。私たちの僕として、私たちに仕えてくださったのだ。
(3)ダビデの支配
ダビデの支配はこの神の謙遜によって成し遂げられたとダビデは言っているのだ。その神のゆえに、30節に「(18:30)神、その道は完全。…」とあり、32節には「(18:32)この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。」となる。
ダビデはこの詩篇の28~45節までに出てくる様々な戦いでの勝利が全て、自分の力によってではなく、神様の力によったことを証している。これはとても大切なことだ。さきほどのルターの言葉「聖なる者には聖なる者となられる。なぜなら聖なる神の近くにいる聖徒は、聖さを自分のものにしないで、ただ、神のものにするからである。」という言葉の通りだ。
また、37節にあるように「(18:37)私は、敵を追って、これに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。」とあるような敗走する者への追撃も、神ご自身が罪や悪魔に対して徹底的に戦ってくださる姿を予表している。
その追撃の様子は、ダビデがアマレク人から奪われた家族や財産を奪い返す出来事を連想する。イエス様はご自分を強盗に例えられて「(マル3:27) 強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。」と悪魔への戦線布告をなさった。
ですから、キリストの支配の確立のための福音宣教ということを考えれば、さらに、謙遜になられて私たちの内に住みたもう聖霊なる神が、弱き私たちをも強くし、また用いてくださってご自身の御力によってそれを完成にまで導かれるという望みを見るのだ。
本論3 宣教とその目的としての賛美と礼拝(46~50)
(1)ユダヤ人にはユダヤ人のように
一見すると、徹底的な追撃、容赦のない戦いは、力や、政治や、圧力による伝道を連想させるかもしれない。しかし、それは聖書が示している福音宣教の方法ではない。私たちの宣教、それもまた神と同じ謙遜という方法による。
思えばパウロは鏡のような宣教論を展開している。「(Ⅰコリ9:20) ユダヤ人を獲得するためにユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法の下にある人々を獲得するためには律法の下にある者のようになり、律法を持たない人々を獲得するためには律法を持たない者のようになり、弱い人々には、弱い者になり、すべての人に、すべてのものとなった。それは、何とかして、幾人かでも救うためだった。」と記している。
戒めなければならないことは、キリストを信じていることで決して上から人を裁くように見てはならないと言うことだ。仕えていくこと。へりくだること、それが宣教の唯一の方法だ。
だから追撃の徹底ぶりを、自分自身の信仰のチャレンジとして受け止めるとすれば、自我、自己中心を徹底的に砕いていくこと。「御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」という言葉で表されているような、肉との戦い、罪との戦いとして受けとめてもよいと思う。ガラテヤ書で学んだジョン・ストットの言葉を思いだす。
イエス様がおっしゃった「(マタイ16:24)・・・だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言う言葉から、私たちは当時の死刑囚のように、自分が磔になる十字架の木を処刑場まで担いでいく。刑場に着くと、それをそこに置き、御霊に生きる自分が、肉の思いに生きる自分を十字架の上に横たわらせて、釘打ちにして処刑する。十字架は徐々に弱らせて、弱らせて殺す。死以外にはない。私たちの御霊の思いと肉の思いとの戦いは死ぬまで続く終わりなき戦いだ。肉の思いは死なない。しかし、その死んでいない肉の思いを。十字架に釘付けにし、何も出来なくしてしまう。そして、完全に死に至るまで釘づけにしたままにそれを放置する。私たちの心の中に起こる自己中心な肉の思いを懐かしんだり、もてあそんだりせずに。無慈悲に釘付けたまま放置する。決して容赦しない。例え激痛がともなっても、それが、私たちクリスチャンの肉として表現される罪に対する姿勢だ。
(2)神と人
さて、鏡のように見える関係は、最初神様と私たち、そして、私たちと私たちが福音を伝えたいと思っている人たちの両方に見えて来た。そうしてみると、この両面があるということがとても大切なことのように思えてくる。
Ⅰヨハ4:8「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
Ⅰヨハ4:20「…目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」ここでも内村鑑三の言葉を紹介しましょう。
「(内村)こは単に神は人の心の反映にすぎずというのではない。人は自己に無きものを神において見るあたわずというのである。神にゆるされんと欲せばまず人をゆるさざるべからず。神にあわれまんと欲せばまず人をあわれまざるべからず。イエスは教えたもうた、「あわれみあるものはさいわいなり、その人はあわれみを得べければなり」と。人に小なるあわれみをほどこして神に大なるあわれみをほどこさる。
「(マタ25:1~) 王は『祝福された人たち。御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』『主よ。いつ、私たちはそうしましたか。』すると、王は『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
(3)賛美と礼拝
18:50 「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」岩波訳では「油そそがれた者」は「彼のメシヤに」と訳している。神はダビデに約束をされた。Ⅱサム7:12~16「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」このダビデへの約束が、ダビデの子である、メシヤ、キリスト「油そそがれた者」によって果たされ神の国の支配が確立したのだ。そして、やがてキリストによる完全な支配の時が来る。『その時、悪魔と死は、キリストの足元に踏みつぶされて、滅ぼされる。完全制圧。そして新天新地となる。
「(Ⅰコリ15:24~28)…そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。…」
内村鑑三が日清戦争で主張した聖戦論を撤回し非戦論を展開して言った一つの理由は、日本軍が勝利をした時の敵に対する非道な態度だったという。勝った時こそ、その人の真価が問われる。高慢になって権力を押し付けるのか。それとも、神をほめたたえるのか。自分を王として君臨するのか、神を王として仕えるのか。この詩篇の枕詞に「主のしもべダビデによる」とあった。キリストでさえも最後には全ての栄光を父にお返しする。「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです(Ⅰコリ15:28)」こうして神様がほめたたえられるのだ。最終的に、神がほめたたえられて全ての人に礼拝される。これが歴史の完成の時だ。
結び 私たちは既に勝利が決定しているこの戦いに召集されている。
「(ヨハ16:33) …あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
Ⅰコリ15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
※注 参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社 詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部 聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館 「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社 「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社 「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社 「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会 「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社 「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書 LB(リビング・バイブル)