「御翼の陰に」詩篇17篇(2015年02月01日)

序 : 「ダビデの祈り」私たちが、聖書によって、何千年も前の信仰者の祈りを言葉で読むことが出来るのは何と幸いなことだろう。特に祈りの言葉は、歴史書や文学書と違ってその人の魂に触れることが出来る。信仰の核に触れることの出来るそういうものだと思う。

本論1  ダビデの祈り
(1)詩人の訴え    さて、詩人は命を狙われ、追い詰められている。切羽詰まった状況なのだ。17:11に「彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。」とあってダビデのマオンでの危機を思い出させる。Ⅰサム23:26 「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。」その地は円錐形の丘で、四方を遠くまで見渡せるそうだ。サウルがそれを取り囲めば、絶体絶命の状態だ。袋の鼠。そのような中でダビデの祈りがささげられている。

17:1 「【主】よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。」

四方を取り囲んでも天の窓を人は閉ざすことが出来ない。彼はその天に向かって叫ぶ。

「聞いてください」「耳に留めてください」「耳に入れてください」と神に迫る。

17:2 私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。

詩人は神に公正な裁きを切に求めている。それは今、不当に嫌疑をかけられている、汚名を着せられている。だから「(LBでは)嫌疑を晴らしてください」となっている。「私に味方してください」と言うのではなく、「公正に見てください。どちらも良く見て、そして、正しい裁きをしてください」と言っている。

(2)自己吟味
こう言えるのは自分に自信があるからだ。自信がなければこう言えない。

もちろん、誰でも全く罪がないと言うことは出来ない。しかし、ちょうどパウロが「(Ⅰコリ4:4) 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」と言いえたように。やましいことがないということだ。

しかし、現実は今、ひどい困難に直面している。神がそれを許している。ふと、やましいことがないと思っているものの、果たして、本当に自分の罪の結果ではないのかと心によぎる。「(詩66:18)もし心にいだく不義があるなら主は聞き入れてくださらない」とある。そこで詩人は自己吟味する。人間には「心」があり、それが言葉となり行いに表れる。そこで「心」と「言葉」と「行い」についてのべられている。

17:3「あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。」

○「心」について考えてみれば、今まで何度も、夜、一人、静思の時、瞑想の時、神のご臨在の時、心の深みまで問われることがあった。本物にするために。「問いただされました」「取り調べて(LB)」心の奥の奥まで聖めようとなさる。「ためされる」というのは「火をもって(共)」金属を精錬するように「煉られる(岩)」。(万引きGメンが「旦那さん手提げの袋の中身を見せてください」と言われて中身を全部広げると店の商品は一つもない。それは以前一つだけ万引きした時に問いただされたので、もうきっぱりと足を洗っていたから)神は今までの人生を通して、私の心を聖めて来た。「何も見つけ出されません」は「(小池)摘発すべきところなく」とも訳されている。証拠となる物は一つもない。

○「言葉」についても、今まで何度も失敗してきた。「あんなことは言わなければよかった」と言うことの連続だ。私たちの発する全ての言葉を神が聞いておられ、言葉においても裁かれるお方。だから詩人は「あやまちをしまいと心がけ」た。

17:4「人としての行いについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。」

〇「行い」については、「あなたのくちびるのことば」「神のみことば」今の私たちにとっては「聖書の言葉」によって神の喜ばれる歩みへと矯正されてきた。たえずみ言葉によって吟味し「見張り(岩)」、そのことによって「無法な者」「暴力の道」を避けることが出来た。このようにして

17:5「私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。」

「道」を「轍(わだち:小池)」とした訳があった。私たちにしたら、イエス様がすでに歩んだ道、あるいは信仰の先人たちが歩んだ道。轍を歩む「あなたの道」だから私が行きたい道ではなく、神様が示される道だ。イエス様はペテロに「…あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハ21:18)」これもゲッセマネで捕縛された後のキリストの轍だ。こうして「一歩一歩揺らぐことなく(共)」歩んで来た。

(マケリゴット師:奥さまにネクタイの細かなことまで言われた時、「うるさいなあ」とは思わずに「まだ妻は私をあきらめていないのだ」と思った。素晴らしい夫としてのイメージをあきらめていない)神様は私たちがキリストを信じた時に(結婚が決まった時に)私たちを御子と同じ姿にあらかじめ定められた。私たちを神と共に生きるのにふさわしくするためだ。神は私たちの心も言葉も行いもとことん御子の水準にまできよめようとなさる。このような日々の生活の積み重ねで、後ろめたさを持たない。だから神への力強い祈りが生まれる。(小畑)

(3)かしこまって真剣に
17:6「神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。」

かしこまって、自分の考え思っていることを誰かに伝える。これは人の世界では簡単なことではない。特に権力者に対しては。時代劇なら、直訴は切腹、要人には簡単には会えない。相手の都合を聞いて、日程を調整して、約束して、会いに行く。ある場合は時間を取ってさえもらえない。と仕方がないので、交わりの機会、通りすがりに一言がいいところ。全く相手にしてもらえないこともしばしばだろう。門前払い。(例話) しかし、神様はいつでも時間を取ってくださいます。待っていてくださると言ってもいいだろう。日程を調整する必要はありません。ただ、私たちの側の問題だけだ。私たちはたくさんある今日の予定をこなす中で、儀式のように「帰ってきたら、手を洗ってうがいする」「起きたら歯を磨く」という感覚で祈る。それでも祈らないよりは良い。全く無視して会話のない家庭もある。あっても親子でお互いの用事を伝えるくらいの会話しかない。心の中を分かち合えるような会話はない。そういう家庭は寂しい。親は寂しい。それが神様の思いだ。

時には、このようにかしこまって祈りたい。このように襟を正して、改まって、神様にお祈りをする。

本論2 私たちの本当の避け所
(1)神の右の手で
さて、例え自分の内にやましいところがなかったとしても、私たちは自分の正しさ、自分の信仰の力で神様を動かせるわけではない。あくまでも、どこまでも、神の一方的な恵みによることを詩人は知っていた。

17:7「あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。」

救いはあくまでも神から来る。彼は自分の人生の中で度々その「不思議」「奇跡的介入」を経験してきた。また、それはかつて神が歴史の中で、聖徒たちにも経験させてくださったことだ。エジプトから紅海を渡っての脱出もそうだ。歴史の中で貫き通されている神の偉大な愛と救いの約束がある。(その具体的な行為となって表れたキリスト。)だから今の困難、窮状を見てくたださい。「驚くばかりに表し(口)」「目を見張るほどに見せてください。(LB)」あなたの力と権威のある右の手でそれを見せてください。この時ダビデは無数の敵に対して高々5~600人の仲間だった。それでも「神の権威と力だけを信じ、神の護りだけを本当の護りとなし、その他の何物をも力としなかったのだ(小池)」。

(2)御翼の陰
17:8「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」

詩人は神様の目を連想しています。神様の瞳だ。その瞳をよく凝らして見ると、神様が見ているものがその瞳に映っている。その瞳に映っているのは自分の姿だ。瞳は見る物が映り、身体の中で最も注意深く敏感に守られる部分だ。私たちも無意識のうちに瞬きをしてそれを守っている。

「詩91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」とある。身の避け所として聖書には度々、親鳥の翼が出てくる。ダビデもルツもそう表現している。(ルツ2:12)、翼は神の恵みだ。(詩36:7) 私たちも、キリストにある神の恵みに身を避ける。イエス様は「(マタ23:37)ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」とおっしゃった。
親鳥の羽の下に身を隠すのは、自分が弱いひな鳥であることを自覚しているからでもある。自分が自分の力で生きていける一人前だと思っている者は、時に自力で戦おうとして破れ、他に隠れ場を探して、餌食となる。しかし、親鳥の羽の下は安全だ。親鳥が敵と戦ってくれる。

(3)敵の脅威
9~12節までは敵の脅威が記されている。
17:9「私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」
「悪者」と言う言葉を「(共では)あなたに逆らう者が私を虐(しい)たげ」とある。神様に逆らう人たち、神を無視する人たち、これが罪人であり、悪者だ。彼らは自分が神であり、彼らを動かすのは彼らの欲望だ。この悪者についても、「心」「言葉」「行い」が記されている。
17:10「彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。」

神様の側は愛を注いでいても、心を堅く閉ざせば、愛は心の中に入って来れません。

「鈍い心」は「(共では)肥え太った心」とあり、自己中心で欲望に生きていてので、神様に対する霊的な事柄については全く鈍くなっている。だから人に対しても「(LB)情け知らずで横柄」だ。

17:11「彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。」
柔道の選手の試合前の表情と言うのは「必ず相手を投げ倒そうという意欲が現れて目を据えている。」あの鋭い目だ。その行いは正しい者をそのままにしていられない。正しい者を無き者にせずにはおれない。それは光がまぶしいからです。光が自分の罪をあからさまに照らすからだ。彼らはそれを放っておけない。妬み、これがサウルをしてダビデを狙わせ、キリストを十字架に追い込んだ。

17:12「彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。」

世界遺産と言う番組で、最も動物を身近で見えるサファリと言うのをやっていて、カメラマンがライオンが獲物を捕らえる様子を間近で映写している場面が映った。口を血だらけにして獲物を引き裂き、血を飲む音まで聞こえてくる。「あえぎ(口)」「いらだち(文)」舌舐めずりしている。草むらに身を低くして待ち伏せしている様子も目に浮かぶ。「彼」は単数になってダビデ討伐の指揮官サウルの顔が浮かんでくる。

そしてあらゆる光を憎むねたみを起こさせる敵の指揮官としてのサタンを思い浮かべる。「(Ⅰペテ5:8)身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」イエス様はこの悪魔との戦いに祈りをもって望まれた。

本論3 神の支配を不法の世に見つめる
(1)神の剣   17:13「【主】よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。」

時代劇を思い出す。弱い善良な者が、悪者たちに取り囲まれて危ない時に、助けを求めると、どこからともなく、強い剣士が現れ、悪者たちに立ち向かい、彼らを打ちのめして助け出してくれる。時代劇のヒーローだ。人間の持つ武器は、刀から、槍、弓矢、飛び道具としての鉄砲、大砲、ミサイル、原爆と、益々エスカレートして現代の戦争は恐ろしさを増している。しかし、どのような兵器や軍隊も神の剣に勝る物はない。エリコの城壁はみ言葉への服従によって落ち、ダビデが罪を犯した時に、み使いが遣わされると7万人が疫病で打たれて死んだ。アッシリヤがエルサレムを包囲した時「(Ⅱ歴代32:20・21)ヒゼキヤ王と…預言者イザヤは、…祈りをささげ、天に叫び求めた。すると、【主】はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。」185000人が打たれた。どんなに時代が変わり、武器が恐ろしい物になっても、神の力は人間のどんな武器や策略にも勝る。ダビデのマオンでの危機では、神は敵国ペリシテ人を侵入させることでダビデを救われた。窮地に陥ることは許されたが、サウルの手に渡すことは許されなかった。悪魔は神のみ許しの中でしか攻撃出来ない。

イエス様はこの悪魔と戦われた。「(マタ26:53)イエス様がゲッセマネの園で祈っておられると、大祭司から遣わされたならず者たちに取り囲まれる。ペテロは思わず剣を抜いて、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

神にお願いすれば助けていただける。しかし、私たちのために死ぬためにあえてそれをしないで御心がなされることを受け止められた。そして、死をもって死に打ち勝たれた。それは私たちを罪と死から救い出すためだった。

(2)二つの輪    17:14「【主】よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。」

「【主】よ。『地上の利得しか眼中にないこの世の(LB)』人々から、あなたの御手で『お救いください(口)』。彼らの相続分は「この世のいのち」だ。彼らは神を全く抜きにしてこの世の幸せだけを求めているから。実は、彼らの食べている物も、持ち物も、神様からの宝のような賜物でしかないのだが、彼らはそれに満たされながら、神を知らず、神に感謝もささげない。それなのに、彼らは、子どもたちがたくさんいて、まだ、右も左もわからない幼子たちにまで財産を残している。」こうして悪人が栄華を極めている。あたかも、神の支配はないかのように。「(カルバン要約)悪しきものなのに、太陽や空気、食べ物などを享受するばかりでなく、あたかも、神に養われているかのようだ」

ここには二つの輪の衝突が描かれている。一つの輪は神の支配、もう一つの輪は地上の不法だ。これと、同じテーマは詩篇73篇にも取り上げられていて、ロイドジョーンズが一冊の本にしている。そこでは詩篇の作者が、この問題の答えを知ろうと、「思い巡らし」「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。(73:17)」とある。彼らの腹が神の宝で満たされ、彼らが肥えるのも、実は屠りの日のために備えられているのだと。私たちは、豊かさとか、家庭が安定して子孫がたくさんいるかどうかという判断基準で、幸せを考え、神の祝福をさえ考える。しかし、現実はそんなに単純ではない。それがわかってくると、羨むことも妬むことも消え、自分の足場を守る惑わしもなくなる。

(3)神との交わりだけで満ち足りる
17:15 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。

神は生きておられ、全てを必ず裁かれる。しかし、私たちの置かれている現実、私たちの今日の歩みは、引き続き不条理の中にいるように見える。

今、彼のおかれている状態は貧しく、子宝も少なく、遺産もない。あるのはたった一つだけ、それは神様との親しい交わりだ。逆にそれだけで構いません、それだけで誰よりも平安、何者よりも裕福、心は満ちたりているという告白だ。詩16:5「【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」イエス様はそうだった。

イザ 53:2・3「彼は…砂漠の地から出る根のように育ち…見とれるような姿もなく、輝きもなく、慕うような見ばえもない。…さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。…」実際、貧しい家庭に生まれ、農機具などを作りながら、結婚もせず、家庭も子供も持たずに、ホームレスで、無実の罪で死刑にされた。財産も名誉も地位も残さなかった。ただ、父なる神との親しい交わりに生きたのだ。イエス様はそれで満足され、父に信頼しきって十字架に死なれました。その信頼に答えて、父なる神は、イエス様を死者の中からよみがえらせました。そして、今も生きておられるのだ。私たちもまた一日一生、毎朝、目覚めと共にますます神を思い見るのだ。こうして、やがていつの日か、死を迎える時に、まことに目覚めと共に神様の御姿を拝して、真実、満ち足りる者になるのだ。赤ちゃんが産みの苦しみを経て、お母さんの顔を見上げるように。

この「あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」と言う言葉から、私たちもまた、御姿にあずかることも浮かんでくる。ピリ3:21「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」二つの輪の相克の中で神に益々近づき、その愛に生かされながら、意志の通じ合う、似た者同士となっていくのだ。

結び  私たちは死ぬときに、何かを天国に持って行くことが出来るわけではない。私たちが残したもので神の前に何か誇れるものがあるのでもない。 内村鑑三の言葉「後世の最大遺物」より。内村は人間が後世に残せる最大のものは何かと問い、お金、事業、思想を残せるかと問いかけながら、最大の残せるものは「勇ましい高尚な生涯」だと言い、そしてこう語る。「高尚なる勇ましい生涯とは…すなわち、この世の中にはこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神の世の中であるということを信ずることであります。失望の世の中にあらずして、望みの世の中であるということを信ずることであります。この世の中は悲しみの世の中にでなくして、喜びの世の中であるということを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物としてこの世を去ると言うことであります。」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)