「一通の案内状」

柿生キリスト教会に来ているNさん(70代、男性)の声をご紹介します。

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我が家のポストに、一通の案内状が入っていました。2001年の米国同時多発テロの頃、“世界の平和を祈りましょう”との主旨の柿生キリスト教会からのご案内でした。

この案内状をもって初めて柿生キリスト教会の日曜礼拝に出席しました。礼拝室に入った時、ふと30数年前20代の若い頃の不思議な出来事を思い出しました。

通信企業に入社し、取り組んだ研究で全く出口が見えないある年末の大晦日に山に出かけました。天候が悪く夕方から猛吹雪になり視界零で道に迷った時、偶然キャンバスを持った老画家に出会い無事に下山できました。豪徳寺に住むこの老画家の勧めで、親友である成城学園の画家のアトリエに通うことになりました。このアトリエは、正面に十字架がないだけで柿生キリスト教会の礼拝室とよく似た造りでした。

この画家は、毎週日曜日夕方まで出かけているので自由にこのアトリエを使いなさいと、油絵で囲まれたプロの仕事部屋を見ず知らずの若者に開放してくれました。静寂と小さな北窓の淡い間接光のもと一人で、ただ石膏像を終日見続け、結局1年間ほど毎週日曜日に通いました。

聖書から学ぶ事は多い。私の場合その理解は、数々の出来事を通して納得することが多い。一通の案内状をいただいた2001年は、丁度2000年に通信企業を定年退職し、第2の人生として教育分野での仕事をする時期でした。企業時代の達成目標は、私の場合情報通信ネットワークやITなどの“モノ”が中心でしたが、これから取り組む教育分野は、まさに“ヒト”が対象でした。この時期に聖書を読み始めたのは、今から思えばピンポイントの貴重な“時”であったように思います。

先に述べた吹雪の中でも現場に出かけた画家、自分のアトリエを提供してくれた画家(クリスチャン洋画家と後で知りました)、この二人の洋画家からは“よく見よ、直視せよ”と、またそのころ上司の紹介で知った老学者からは“古典を読め、とりわけ聖書を読め、読めば2000年生きたことになる”と。若い当時はあまりピンときませんでしたが、今やっと心に響くようになりました。聖書は過去に経験したそれぞれの出来事が、実はその点と点とが繋がって、線と面になっていることを教えてくれます。

自宅の近くに私が好きな峠があります。左右180度の眺望のきくその中央に、グランドを前にした柿生キリスト教会が、遠景の中に小さく見えます。早朝この峠に立つと、教会の十字架の上に朝日が昇ってくるのを見ることが出来ます。