礼拝メッセージ「聞かざる言わざる」詩篇38篇(2016年01月17日)

※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。

序 :「記念のためのダビデの賛歌」この詩篇38篇はいくつかある悔い改めの詩篇の一つだ。最も考えられるのは、バテ・シェバ事件の悔い改めだ。(2サムエル11章)
ダビデが、夕暮れ時、王宮の屋上で見初めた、ヘテ人ウリヤの人妻バテ・シェバを召し入れ、寝て、子をみごもらせる。それを隠そうと、戦場から夫ウリヤを呼び寄せ添い寝をさせようとするが、ウリヤは戦時に自分だけが良い目を出来ないと家に帰らない。焦ったダビデは将軍ヨアブにウリヤを「激戦の中で死ぬようにせよ。」と手紙を送り姦淫を隠ぺいするために殺人を犯した。神の前に完全犯罪などはあり得ない。
神は預言者ナタンを遣わし、その罪を暴露し、ダビデの家に争いと災いを下され、その子は死んだ。このような最も恥ずべき自分の罪を自分で記念する、あるいは記念される。それを忘れないようにするということは大切なことに思える。あえて人前にあからさまにする必要はないが、記念とするのは、スポーツ大会で優勝したトロフィーだけではなく、心の中にしっかりと据えておくべき最も恥ずべき悔い改めの経験だ。それは二度と罪を犯さないための錨の役を果たすからだ。あなたの一番の恥を記念の錨として心の大事なところにしまっておいて、生きる。それが人に謙遜を与え保つ秘訣だ。

本論1 神の叱責
(1)神にすがりつきながら
38:1 【主】よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
彼は自分の罪を自覚しているので、それを免除してくれとは祈らず「大きな怒りで」「激しい憤りで私を懲らしめないでください。」と祈る。本来なら神によって殺されても仕方ない死罪に値する犯罪だ。しかし、ダビデは神の前に素直に悔い改めた。
「(2サムエル12:13・14)ダビデはナタンに言った。「私は【主】に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、【主】の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
 神様は確かに怒られ、罰っせられたが、そこには悔い改めに対する憐れみがあった。かれはまだ生かされた。しかし、それは辛いものだった。
38:2「あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。」
神の矢が「深く(LB)」「射抜き(新共)」それだけでなく、神ご自身の手が私を「押さえつけています(新共)」「容赦ない連打に圧倒されました。(LB)」
ダビデは人の見ていないところで姦淫の罪を犯し、自分の手を使わずに戦死したように見せかけてウリヤを殺した。しかし、神はこう仰せられた。「(Ⅱサム12:11・12)…『…わたしは…あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」これはアブシャロムの反乱でそのようになった。
しかし、2節でそんな苦しみの中にあっても「あなたの矢が」「あなたの手が」と神を「あなた」と呼んで、その神との関係を握りしめている姿がある。叫ぶ相手はあなたしかいない。あなたに立ち帰る以外の道はない。
詩139:7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
 逆に言うなら、私たちは放蕩息子のようにどこにあっても変える場所を持っているとも言える。

(2)悔い改めへの一歩
38:3「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。」
ダビデは罪に心が苦しんだだけでなく、それは肉体にもおよんだ。「病気となり(LB)」「まともではなくなり(新共)」そして、それは人間関係にも及ぶ。つまり○罪○病苦○人々の責めだ。こうして彼は自分が蒔いた種の刈り取りの厳しさを自覚している。
38:4「私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」
自分が犯す時には滴のように見えた罪は「洪水のように(LB)」氾濫して、「自分では負いきれない重荷となった(LB)」
38:5「私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。」
苦しみは長期にわたり、もう自分の力で回復するのは難しい状態になっている。「膿みがあふれている(LB)」「覆い隠せない」「ただれるに任せるばかり」しかし、この醜悪な事態も元をただせば、自分の愚かな肉欲のためだったと罪を認めている。この自分の愚かさに気付いていることが救い、そこに知恵への一歩がある。2節で、神の言葉が矢のように突き刺さるのも、彼の良心が生きている証拠で、柔和な心にこそ神の言葉は射抜かれ、頑なな心には、放たれた神の言葉も跳ね返ってしまう。ルターは「ダビデが義と恵みに生きていたから、嘆いたのであり、罪ある者はかえって罪を感じないものだ。狼は狼に叫ばない」と言う。

(3)砕かれた魂
38:6「私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。」
「身を二つに折るようにして(LB)」「法廷で有罪判決を受けたように」檻の中の病める猿のように。それでもその猿は神には牙を向けて、噛みつこうとはしない(小畑)」
38:7「私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。」
「一面にただれ(岩)」「高熱が全身を打った」しかし、文字通りの病気だけではない。腰の原語は「信頼する」「確信する」という意味の言葉で、人の姿勢を左右する要となる部分であり、心も体もまっすぐに歩くことが出来ない。
38:8「私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。」
「もう立てないほど(新共)」「虚脱し(岩)」「衰えはて、いたく打ちひしがれ(口)」「精根尽き果てて絶望してうめくのみです。(LB)」「獅子のように発狂しそうになって叫ぶ」。こんな風にもだえ苦しむダビデを「こんな罪を犯して」と他人事として見てはならない。
イエス様はルカ18:9~14で祈るために宮に上った二人の人のたとえ話をなさった。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

本論2 主に委ねての沈黙
(1)全てを知っておられる神
38:10「私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。」
「心臓は激しく動悸し」「体力は消耗し、失明の一歩手前(LB)」
38:11「私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。」
「えやみ」は「らい病」を表すことばでもある。レビ13章には「らい病(ツァラアト)」について記している。彼らは隔離され、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。またベンハーの映画にあったように、その住まいは宿営の外でなければならない。病気がうつるのを恐れて遠のく人たち、彼に関わりたくないという人もいる。ノーベル賞を取れば、皆お近づきになりたいと拠って来ても、犯罪者になれば、みんな、「私はあの人とは関係ない」と遠ざかる。こうして友に見捨てられ、ヨブやキリストに似た体験をさせられる。
 しかし、ダビデは9節でこう言っている。
38:9「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」
この厳しい状態、その中での1節のような願いが、御前にあり、その歎きをあなたは全部知っておられると。139:1~には「神が私たちを探り、すわるのも、立つのも知っておられ、思いを遠くから読み取られ、歩みと伏すのを見守り、道をことごとく知っておられます。」とある。
教職者会でヨナの話をした。ヨナが海底でクジラのような大きな魚に飲まれた時「私が苦しみの中から【主】にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」と言っている。ヨナは死そのものに飲み込まれたような状態の中で、たとえ祈ることさえ出来なくなったとしても、それでも、全てをご支配しておられる御手の中にあるという事実は変わらない。そして、その方は生きておられる。「私たちは何があっても神の臨在から決して離れていない。(ダフド)」

(2)ダビデの沈黙
38:12「私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。」
そのような状態に乗じて、敵は、罠を仕掛けてダビデを殺そうとする。あることない事欺きの言葉を言いふらす。信仰を持っているのにあんな目にあっている。ダビデの場合、自分の罪のゆえに、侮りを起こさせたが、キリストの場合は罪がなく、私たちの罪の身代わりに死なれたのに、神から罰せられたと誤解した。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
38:13 しかし私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。
38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。
38:15 それは、【主】よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。
「(ヒルティー「眠られぬ夜のために」)『沈黙で失敗する者はない』実際、きわめて多くの面倒で不愉快な人生のいざこざも、しばしばこのやり方で、たやすく切り抜けることが出来る。これに反して、多くの人が愛好する、いわゆる『自分の意見発表』はたいてい、ただ双方の意見の食い違いを一層際立たせるだけで、時には事態を収拾のつかないものにしてしまうことがある。文通の場合にも、返事したくないことには答えず、また催促されてもこの決心を変えないことが、多くの不快な議論を打ち切る確かな方法である。ところが大部分の人が三度目にはその決心を翻してしまう。」
箴17:27 自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。
17:28 愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。

(3)主の沈黙
しかし、ここでの沈黙は15節にあるように「主よ(ヤハウェ」「神(エロハーイ)」「主よ(アドナイ)」と異なる神への三つの呼びかけによって、望みをただ神に向けて、私は沈黙を守ります。あなたが彼らにお答えくださいと応答を期待している姿だ。
「(Ⅱサム16:5~12)アブシャロムの反乱で都落ちしたダビデ王にサウルの家のひとりシムイが石を投げつけてのろいのことばを吐きかける。「出て行け、血まみれの男、よこしまな者。今、おまえはわざわいに会うのだ。」部下が「首をはねさせてください。」と言うと、ダビデは「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。【主】が彼に命じられたのだから。たぶん、【主】は私の心をご覧になり、【主】は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」と言う。
イエス様はイザ53章に記されたメシヤ預言の通りに沈黙を守られた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
Ⅰペテ2:22「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

本論3 救いの祈り
(1)光と闇
38:16「私は申しました。『私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。』」
「祈ります(口)」「私のことによって喜ぶことをゆるさないで下さい(口)」「空威張りを増長させないように」
38:19 しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。
「気勢をあげて迫害してきます(LB)」
格闘技などで、大きなダメージを受けた選手に対して、そのダメージにさらにダメージを与えてやっつけようとするスポーツマンシップとは程遠い者のようだ。
38:20 また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。
「私が良い事に従うがゆえに(口)」「わたしは彼らの幸いを願うのに、彼らは敵対するのです。(新共)」
ヨハ3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。暗闇は光を憎む。光が自分たちの悪を明らかにするからだ。

(2)罪人を招くために
38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
「悲しみ(文)」「罪が四六時中私を見据えています。(LB)」
38:18 私は自分の咎を言い表し、私の罪で私は不安になっています。
私たちは罪人だったがキリストによって贖われ、義とされた。闇から光に移された者だ。誘惑に対してノーと言って光に向かうことは、悲しみ、苦しみをも通る道だ。
「(ルター)いわゆる賢明な正しい人は自分で平安と安逸と快適と名誉を喜んで取るが、しかし、自己を悲しませるもの、または苦しめうるものを眼前に取ろうとしない。かような人々はただ自己に愉快なものや気に入るもののみを持とうとする。何故ならかような人々は自己の罪を隠し、これを言い表さず、ただ自己の敬虔のみについて考え、自己の罪について考えないで、かえって他人の罪を考えるからである。」
イエス様が取税人や罪人たちと共に食事をするとパリサイ人たちが批判した。しかし、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです (マタ9: 12・13)」とおっしゃった。パウロもこう言った。
Ⅰテモ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

(3)神に助けを求める
38:21 私を見捨てないでください。【主】よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。
ここでも「【主】よ(21)」「神よ(21)」「主よ(22)」三つの言葉を使って、神のみに助けを求める祈りになっている。全く助けのない状態でこそ、多くの人は実在を見出してきた。神の現臨があるから、私たちは、いつでも神に助けを求めて祈れる。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」という言葉は、神の現存、現臨が永遠から永遠まであるので可能となる。
ここでのダビデはヨハネの福音書8章に出て来る、姦淫の現場で捕えられた女性のようだ。恥ずかしい現場をあからさまにされ、皆がいきりたって自分を殺そうとしている。それをいい機会だと、キリストを訴えようとしていた律法学者とパリサイ人がイエス様の御もとに連れて来た。しかし、それこそ神の現存に触れた瞬間だった。
(ヨハ8:1~11) 彼らは女を真ん中に置き「モーセは石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」とイエスに問いかけた。イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われる。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

結び 真の悔い改めは、自分に絶望しても、神に絶望しないことから生まれる。
詩51:17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)