「わが霊を御手に委ねます」詩篇31篇(2015年09月27日 )

※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。

序 : ギロラモ・サヴォナローラという宗教改革者がいるが、彼は生涯、この詩篇31篇を愛唱したと言われている。この詩篇を愛唱したということは、様々な困難の中で信仰を守り通した人ではないかと想像する。サヴォナローラ(1452~98)という人は医者になるため勉強していたが、信仰を持ってドミニコ会に入信、やがてフィレンツェのサン・マルコ修道院に、説教壇からフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴えた。やがて政治への影響力を及ぼすようになると、教皇をも批判し、1497年には破門される。1498年、激しい拷問を受け、裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。彼の最後の言葉は「わが主は、わがすべての罪のために死にたもうた。私はこの貧しき生命を喜んで彼に献ぐべきではないだろうか」であった。それだけではなく、多くの預言者や聖徒たちがこの詩篇31篇に親しんでいたことが分かっている。
本論1  神によりたのむ
(1)困難な状況
詩 < 31 > 指揮者のために。ダビデの賛歌
ダビデは苦難の中にいるが、過去において生ける神が助けてくださった。神が味方であるならだれも敵対できないことを、体験してきた。そして、その神はこれからも救ってくださると歌っている。それがこの詩篇の全体の構成で、過去と現在と未来に渡って困難から救い出してくださった神が現在の危急からの救いもなしてくださることを信じ、それをみんなで共有しようとしている。私たちも今までイエス様によって導かれ、ほろびや様々な困難を乗り越えさせていただいてきた。そして、生ける主は今私たちが置かれている困難や、これから出会うであろう様々な困難に対しても乗り越えさせてくださることを覚えたい。
パウロはアジアで経験したことをコリントの人たちに記して、「(Ⅱコリ1:10) ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」

(2)祈り
31:1 【主】よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。
31:2 私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。
31:3 あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。
31:4 私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。
1節に「私が決して恥を見ないようにしてください」これは25篇でどなたかが質問して下さって、ダビデが追われる立場になった恥と言うだけでなく、神がここまで導いてくださったのに、ここで自分が倒れたら、あるいは死んでしまったら、ダビデの信じていた神とは何者なのかと神様の御名が汚されますよという意味もあるとおはなししたが、それと全く同じだ。ダビデはそのように神に身を避け、神の義により頼み、神に助けを求めている。
1節で「あなたの義によって、私を助け出してください。」と言った。ルターは最初、この言葉に躓いたが、この「あなたの義」がさばく義ではなく、与える義であると知って、私たちの救いが、天来の一方的な恵によって既に完了していることを知る。宗教改革の土台となった言葉でもある。誠に私たちの救いの土台は神にある。
だから私たちは信じて受け入れることだけなのだ。そして、ここには祈りが記されている。一節は祈りとは「生ける神に身を避ける」ことだと記しているように思える。直訳は「逃げ込むこと」「神に自分自信を投入すること」だ。この「投入する」とか「委ねる」ということが、この詩篇で最も大切な言葉となっている。

(3)委ねる
ダビデが置かれていた状況はどのようなものだったのか。8節までは、「ひそかに張られた網」という表現、また「岩」とか「巌」とか「とりで」とかという表現から、サウルに追われていた、仕切りの岩での出来事や洞窟での救いなどが浮かんでくる。例えば洞窟での出来事を考えてみると、サウルに追われたダビデが、部下たちと共に洞窟に潜んでいると、サウルがそこに用をたしにやって来たのだ。ダビデの部下は、いまこそサウルを倒す機会だと殺そうとする。しかし、ダビデはそれを止めて、サウルの上着の裾を切り、それを見せて、サウルの前に立ち、「主が私とあなたの間を裁いてください。私はあなたを手にかけることはしません」と言ったのだ。彼の生涯は、いつも、生ける神に委ねる生き方だった。
31:5 私の霊を御手にゆだねます。真実の神、【主】よ。あなたは私を贖い出してくださいました。
主は十字架の上でその最後にこの詩篇を思い出しておられた。最後の言葉はルカ23:46「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」と記されている。イエス様が、始めに「父よ」と言われたことが大切。十字架上でこの節の前半だけを言われたこと、また意味がある。その後の「真実の神、【主】よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」ということばは、まさにその後復活の出来事として起こることだったからだ。
初代教会のステパノも石打ちにあいながら最後の言葉は「私の霊をお受けください。」という言葉だった。ステパノの場合は、その始めに「主イエスよ。」と言う言葉が入る。(使徒7:59)その他にも、殉教したポリュカルポス(スミルナの主教)、ヴェルギリウス、エピファニウス(5世紀の主教)、ベルナルドゥス(12世紀の神学者)、フス(火刑に処せられた宗教改革者)、コロンブス、ルター、メランヒトンをはじめ多くのクリスチャンたちの最後の言葉となった。私たちもその生涯の終わりにこう言えるために、生きているうちに、生きておられる主との交わりと与えられて、感謝と共に委ねられる者とされたい。主イエス様は最後にこのことばを言われたが、思えばイエス様の全生涯がこの父なる神への委ねであったのだ。 ヘンリー・ナウエンが「フライイング・ロドレース」というサーカス団の空中ブランコに夢中になったことを記している。それは、空中を飛ぶ人と、飛んで来るのを空中でつかまえる人との特別な関係のことです。「飛ぶ人は決して、つかまえてくれる人の手を自分からつかんではいけない。つかもうとしてもいけない。完全に信頼して待つ。」ナウエンは実際に自ら、空中ブランコを体験する。ジョナサンという団員が、つかまえ訳で片方のブランコのバーにさかさまに吊り下がり、ナウエンは自分からはつかもうとはせず、ただ委ねて手を伸ばすだけ、それをジョナサンがしっかりつかむのだ。イエス様の生涯もそのような生涯であり、十字架と復活もそのようにして成し遂げられた。

本論2 神の救い
(1)救いの御業の完全さ
5節から8節で言えることは、この神が備えてくださる救いの完全さ、十全だ。神はこの時ダビデは見ていなかったキリストによる救いを完成され、贖いを成し遂げられました。その贖いによる救いは、信じる全ての人に与えられ、その愛に漏れる者はない。神はご自身を求める者に見いだされ、見つけることが出来る。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。この既に勝利を得られたキリストのしはいしていない領域はないのだ。だからこのお方にのみ信頼してより頼めばよいのだ。そして、それは、この方以外により頼む時に、そのこと自体が、この神様の与えている恵みから私たちを引き離してしまうことを表しても いる。
31:6「私は、むなしい偶像につく者を憎み、【主】に信頼しています。」「(字義)空虚な息」「存在無き存在者(デリッチ)」Ⅰコリ8:4「…私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」
ヨナは魚に飲み込まれ、臨死体験の中、この詩を思い出したとも言われています。
ヨナ2:8 「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。」そうです恵みを捨てるのだ。神は私たちに救いを用意しておられる。それも困難からの救いだけではなくキリストによる永遠の救いに導こうとされている。しかし、その恵みは信じて受け取らなければ私たちの物にならない。それはもったいない話だ。これ以上、もったいないことは世界にない。信じないと損だ。
31:7 あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
31:8 あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。

(2)エレミヤもまた
9節から13節には衰え弱り切ったダビデの姿がある。 
31:9 私をあわれんでください。【主】よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。
31:10 まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。
預言者エレミヤはこの詩篇を覚えていて、彼の言葉の中にそれが表れている。実はみ言葉の光で先週の水曜日迄エレミヤ書を学んでいた。この前の水曜日には、エレミヤ書の20章を学んだところだった。国がバビロンによってユダが滅ぼされるという耳障りの悪い予言の言葉を語り、偽預言者や国の人、親しい人からも嫌われる。
例えばある政党が総裁選に候補を立てさせない。立候補した議員は後ろ盾をする人数が得られなかった。権力側にいないと損をしそうだと言うこともあるだろう。サウル王が悪い王だとわかっていても、ダビデには純粋な信仰があると仮にわかっていても、権力者がダビデを殺すように命じれば、そのダビデと共に行動することはしない。イエス様の弟子たちも必死でイエス様についていこうとしたし、たとえ死んでもと覚悟を決めてもいたのだが、それでも人間の決心であって、ふるいで試される時に残るようなものではなかったのだ。いざ、キリストが捕縛され、裁判にかけられ、十字架の磔に定められていく時に離れて行った。
エレ 20:10には「私が多くの人のささやきを聞いたからです。『恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。』私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。『たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう』と。」これは31:11から13節の状況によく似ている。
31:11私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
31:12 私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
31:13 私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。
エレミヤの困難な状況はダビデの置かれた環境とよく似ていて、「四方八方みな恐怖だ」というのはエレミヤのあだ名となった。そして、彼はこの詩篇を思い出していると言われている。その20章ではエレミヤは自分が生まれてこない方が良かったとさえ言うのだが、一方で、エレ20:9「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。』」と告白している。また、エレミヤは決して自国の滅びだけを宣言したのではなく神が、やがてその苦難、バビロンの捕囚からも七十年の時を経てそこからまた帰してくださることも語るのだ。それはエレミヤ書の希望だ。エレ29:11「 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──」

(3)言葉の大切さ
ここでは「言葉」と言うことに注目したい。この詩篇全体に「ストレス」という題名を付けた学者もいる。(ティンダルのコメンタリーのキドナー)
13節には「私は多くの者のそしりを聞きました。『四方八方みな恐怖だ』と。」また、31:18には「偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。」とある。20節の後半には「舌の争いから、隠れ場に隠されます。」ともある。高慢になって人を見下して、誰かのことを話さないようにきをつけなければならない。詩篇を読むとダビデは自分の言葉に本当に気を付けていたことが分かる。「心の中の真実を語る人(15:2)」「舌をもってそしらず(15:3)」「隣人への非難を口にしない(15:3)」「私は口の過ちをしまいと心がけました(17:3)」「私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように(19:14)」と祈っている。イザヤは「…『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。』と言うと、セラフィムが祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があり彼の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』(6:5~7)」考えてみると、自分を妬み、無実の罪をきせて自分の命をあくまでも付けねらうサウル王に対して、彼を悪くいうことを懸命に避けている。彼が死んだ時にも悪く言わなかった。人の言葉は人を生かしもし殺しもする。人の言葉によるストレスはダビデにとっても大きなものだった。そして、様々なストレスを神に告白し、神に聞いて頂き、神の助けを得て、神をほめたたえる。
31:14 しかし、【主】よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」
31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。
15節の「私の時は、御手の中にあります」の「時」は複数形になっているそうで、「私の人生のさまざまな転換点」のことだ。
31:16 御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。
31:17 【主】よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。

本論3 神の恵みの大きさ
(1)神の備え
31:19 あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。
ここには、神が「いつくしみをたくわえ」とか「備えられた」と書かれている。「秘め置き(岩)」(見えないところにひそかに隠すという意味)試練の中にいるとそれが見えないが、神に頼りながらいるとその試練と共に、脱出の道が備えられていたと言うような、神様の慈しみが、隠されているが既に用意されているというような印象だ。
私はヨセフのエジプトでの働きを思い浮かべた。ヨセフはパロの夢を解き明かした。その夢とは、川から上がって来た7頭の肉付きの良いつやつやした雌牛を後からナイルから昇って来た弱々しい非常にやせ細った醜い雌牛が食いつくしてしまうというものだった。それは7年間の大豊作の後に7年間の飢饉が起こるということだと知らせ、総理大臣に任命されたヨセフは備蓄するというわけだ。飢饉で食べられなくなったらどうしようと心配しているのが私たち。飢えた時のためにちゃんと蓄えてくださっているのが神様。かみさまはそのように慈しみを蓄えていて、人からの中傷のストレスの中で隠れ場に匿ってくださる。瞳のように見守り、み翼の陰に匿ってくださる。
31:20 あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。

(2)住む場所
31:21 ほむべきかな。【主】。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。
ケイラでの出来事。ダビデがペリシテ人を打って、ケイラの町を救い、そこに一時住んだ。しかし、サウルがダビデがケイラにいると知るとその命を狙う。ケイラの人々はダビデによって救われたにも関わらず、ダビデをサウルに売り渡そうとし、それを知ったダビデが危うくケイラから脱出するという出来事があった。
31:22 私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。」「(LB)『神様に見捨てられた』と口走った私でしたが、やはり、早合点でした」
 ここを読むと、ダビデがペリシテ人の所に身を寄せ、ツィケラグの町を与えられて住んだ時のことも思い出される。ダビデがサウルとの戦いにペリシテと共に出た時に、彼は寝返るのではないかと疑われ、戦わずしてツィケラグに戻ると、町はアマレク人によって略奪され、何もかも失うという場面だ。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と思っても仕方のない場面だった。しかし、後を追って奇跡的に、それを奪い返すと言う出来事があった。その時のことなどを思い起こす。
イエス様に信頼する者は失望させられることがない。
ヨハ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

(3)主は全てのひとに等しく愛を注いでおられる。
31:23「すべて、主の聖徒たちよ。【主】を愛しまつれ。【主】は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。」
31:24 雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて【主】を待ち望む者よ。
申6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
詩27:14 待ち望め。【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。【主】を。
このダビデの経験は、私たちも出来る経験なのだ。
ダビデは救い出された経験が主によるものであり、その主は永遠から永遠までおられて、そのお方の右の手に来る者を救う方だ。曽野綾子「年を取ればよい事ばかり」(「人間の分際」)ロマ8「今の時の色々の苦しみは翔ら私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば取るに足りないものと」
ダビデは神が味方であるならだれも敵対できないことを、体験してきた。
「神が味方であるならだれが私たちに敵対できるでしょう。私たち全てのためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、御子と一緒にどうしてすべての者をくださらないことがありましょう。・…(ローマ8章)」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)