「主にあって喜び楽しめ」詩篇32篇(2015年10月04日 )

※初代牧師、山守博昭師によるメッセージです。

序 : この詩篇は7つの悔い改めの詩篇のうち(6,32,38,51,102,130,143)の一つだ。詩篇51篇に続く詩篇と思われる。詩篇51篇の表題には「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と記されていて、ダビデの生涯の内でも最も大きな罪であるバテシェバとの姦淫とそれを隠そうとして、ウリヤを殺した時のことだとわかる。この詩篇はその事件のあとしばらくして落ち着き、あふれる罪の赦しの感謝を歌っている詩篇だ。

本論1 罪の問題
(1)事件
人間は自分の経験の奥底にある罪を掘り起こしたくないものだが、聖書はそれを明確にしている。(Ⅱサム11,12章)イスラエルの全軍がアモン人と戦っているさなか、ダビデは、夕暮れ時に、見初めたウリヤの妻バテシェバを犯した。ところが、バテシェバが身ごもったことを知ると、それを隠すため、ウリヤを戦場から帰らせる。戦場から帰れば夫婦だから一緒に寝るだろう。そうすれば、自分の子どもと思うだろうと思ったのだろう。ところが、ウリヤはダビデにこう言った。「神の箱も、主人ヨアブも、家来たちも戦場で野営しているのに、私だけが家に帰って、妻と寝ることができましょうか。あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」部下としては実に素晴らしい言葉だ。信仰的にも素晴らしい言葉だ。しかし、ダビデは焦った。一つの罪を犯した者がそれを隠そうとしてさらに大きな罪を犯すことがある。ダビデは、ウリヤの上司である将軍ヨアブに手紙を書き、そのウリヤに持たせた。その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」そして、ヨアブはこれを実行した。このダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。神はナタンをダビデのところに遣わし、はっきりとその罪を指摘する。するとダビデは「私は【主】に対して罪を犯した。」と悔い改めるとナタンは「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と言う。しかし、生まれる子は死ぬ。しかし、神は憐れみによってバテシェバに次の男の子を与え、その子がソロモン王となる。表題にあるダビデのマスキール、「教訓詩」はこのような罪とその赦しから与えられた教訓を記しているからだ。

(2)真の幸福とは
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
人間は何を求めて生きるのか。人間の真の幸福とは何か。聖書は、その幸福への指針を示している。その聖書の示す本当の幸福とは、良い学校に行き、良い就職をして、良い結婚をし、良い家庭を築くと言うようなイメージではない。
それは人間の本質的な内面の問題に触れないイメージとしての幸福に過ぎない。聖書の示す幸福とは、人間の本質的な問題としての、「罪の問題」を避けて通らない。この1,2節こそ、その幸福の指針であり、この詩篇の結論だ。
アダム以来、全ての人が罪人として生まれた。罪を自分と無関係なことと考えることは出来ない。
以前、「罪と咎の違いは何か」と聞かれ、ちゃんと答えられなかった経験があるが、今日のところで、そのことが記されている。ここでは罪が三つの側面から記されていて、罪の全体像を描いている。それは「そむき(1)」と「罪(1)」と「咎(2)」だ。「そむき(ペシャ)」と言う言葉は、「神への背反」。「そむく」と言う言葉は「背」と言う字を書くが神に背を向けること。神に向かって神を見ていない状態だ。そむきというのは明らかに神に対して背いていることだ。神を信じない人も、他の神を信じている人も、真の神の支配の中に存在しているのであって、信じていないからといってその裁きを免れるわけではない。「私たちは世の偶像は実際にはないものであること、また唯一の神以外には神は存在しないことを知っている」神の愛と真実、またその裁きを信じないことも御心に背くことでもある。存在を知っていて、背くことはより深刻なそむきだ。(ダビデも該当)神の存在を信じることなしに罪の問題を語るならばただ道徳的な社会的な犯罪という人間関係の中に起こるいざこざによる被害と加害の出来事となってしまう。(ニュース) ダビデはサムエル記で「私は【主】に対して罪を犯した。」と言った。それだけ主との個人的な交わりを経験していたので、主に背いていると知ったのだろう。私たちは道徳的に教えられているからと言うのではなく、何を主が喜ばれ、何を悲しまれるかを想像しうる、生ける神様の事を思いながら生活しているかどうかを問われる。神の存在への信仰を問われる。

(3)罪
「罪(カター)」と言う言葉は、「道からの逸脱」で神が備えた目標からそれてしまうことだ。神は存在されるだけでなく、愛をもって私たちに将来と道を与えようとされている。しかし、その本来の歩むべき道から逸脱しその目標は神の考えていることではなく自分の願い欲望となっている状態だ。ダビデは戦いの時には、戦闘に立って戦う人だった。ところが、皆が戦っている時に、屋上を歩いていて、行水をしている夫人を見て、欲望を抑えることが出来なくなったのだ。自分の権力を利用したパワハラによる、神の家族を壊す行為だ。別れ道で道を逸脱すると、元の道に戻るのは難しい。欲望の道がずっとあるので、気が付いたら、そこから引き返すとか、ただしいルートに戻る努力ということをその道を歩きながら出来ない。
そして「咎(アーオーン)」は道徳的な腐敗だ。ダビデは姦淫の罪を犯し、虚偽の罪を犯し、殺人の罪を犯すために、完全犯罪をもくろんだ。「そむき」を神に背を向けることと考えれば「罪」は歩み出すこと、「咎」はその結果だ。もし「そむき」を「根」に例えるなら、「罪」は幹と枝「咎」は「葉」や「実」に例えることが出来るかもしれない。

本論2 罪の全体
(1)三つの頭を持った犬
罪も根本的には神に対して犯すことであるし、罪の赦しもまた、神の内にある。「そむき」「罪」「咎」は罪の三つの表れで、これを神の三位一体によって神ご自身が打ち勝つ道を開いてくださった。
箴28:13「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」
ダビデはおそらく1年位はその罪を誰にも告白せずに隠し通そうとしていたと思われる。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 セラ
神を知らなければ、罪を犯しても、それほどの痛みを感じないこともあるかもしれない。しかし、神の愛、真実、力、裁き、支配を知っている者であればあるほど、罪は痛みとして、心も体もむしばむ。
ダビデの良いところは罪を指摘されると即座に告白したことだ。サウルは周りの人への体裁を気にした。ヨアブは何故ダビデを忠告できなかったのだろう。(のちに忠告する場面もあるが)ナタンは友人であったとも言われる。もちろん預言者としての使命に生きたことの方が印象的だ。私たちも潔く、自分の罪を全部言い表すことだ。それが出来る人は幸いだ。何も教会でみんなの前で言わなくてもよい。ただ神に言えばよいのだから、人に言わなくてもよい。しかし、ダビデが具体的にナタンに罪を告白したように、信頼できる友を持つことを勧める。私にとってはうつ牧師会の交わりはそのような交わりで、他にも何人かの友達がいて、洗いざらい心の奥まで言うことが出来る。それを皆さんにもお勧めする。

(2)すぐに(即座の赦し)
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
神は悔い改めを待っている。だから、悔い改めた時にはすぐに、赦してくださる。
それは、放蕩息子の帰郷の例えによく表されている。悔い改めは背を向けていた顔を神に向けることだ。父親の方に目を向けた息子は父親の家に帰ることを決心する。
ルカ15:20 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」このようにして、神は待っておられるのだ。父親の仕事はたくさんあることだろう。しかし、父なる神の最大の関心事は人間だ。その一点を見つめていると言っても良いだろう。あなたは、それに漏れていないと言うことが、聖書を真理として受け止めている私たちの確信だ。一人の人がご自身のもとに帰ることだ。あなたが、そう決心した時、神はあなたのもとに走り寄ってくださる。なぜなら神はご自分の御子イエス様を十字架におつけになって、その身代わりとして罰をお与えになったのだから。あなたが負っている罪で神が許さない罪はない。
ロマ10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(3)妨げるもの
悔い改めを妨げるものは、自分のプライド、人の目だ。2節で「幸いなのはその霊に欺きのない人だ」と言われている。ダビデは1年もの間、隠そうとしたのだ。
箴28:13「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」憐れみだ。決して罪を赦されたと言っても、それは誇れるものではない。クリスチャンは憐れみを受けた者であって誇れる者ではない。そして、罪を罪として認めないことは人格的な欺き、虚偽だ。
Ⅰヨハ1:8「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。
馬やラバは痛い目に合わせて、持ち主の言いつけを守るようにする。最初は抵抗してとても嫌がる。自分の意志で、人間を助けるようには中々ならない。人間は最初アダムの時に、自分の意志で、神に背いた。だから自分の意志で神に従わなければならない。馬やラバのようではなく。だから

本論3 罪の赦しの喜び
(1)イエス・キリストの恵み
しかし、私たちは時々、ラバのようだ。痛い目にあって初めて主に従うことが良くある。箴26:3「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。」
ヘブル12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
ヘブル 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
1節でみた、罪の三位一体、あるいは、ある人は、地獄の門にいる三つの頭を持つ犬と例えた「そむき」と「罪」と「咎」その三つに対して、神が「そむきを赦される」「罪を覆われる」「咎を認めない」という三つの恵みが記されている。これは神の恵みによって、イエス・キリストによって与えられるものだ。
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
背を向けずにこちらを見てくれれば神は微笑む。道を踏み外しても、その歩みを覆い、見えなくするという意味がある。そして、その地点からナビのように目的地への道を示してくださいます。
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
そして、「咎」を認めない。「元帳から負債を帳消しにする」という意味の言葉だそうだ。

(2)救いの機会
32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
ザアカイはイエス様がお泊りになった、その日に悔い改めたが、もし、その時、言い訳をしたり、自己弁護などをしていたら、イエス様に罪を赦していただく機会を失ったかもしれません。バルテマイは、イエス様が通りかかった、その時にイエス様を呼び求めた。機会と言うものがある。
イザ 55:6 「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
今は、よみがえられたイエス様がいつも私たちと共におられます。それであっても、機会というものはある。
Ⅱコリ6:2「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
ヘブル3:15「『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』と言われているからです。」

(3)喜び楽しむ
32:7「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。 セラ」「勝利の歌が響き(LB)」「()」「()」
32:10 「悪者には心の痛みが多い。しかし、【主】に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」「慈しみが(新共)」「神様の無限の愛に包まれます(LB)」
Ⅱコリ5:14 「(というのは)、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。(私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。)」
32:11「正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」
「正しい者たち」とは罪の赦しなしに道徳的に正しい人を指すのではないことはもう明確だ。「正しい者たち」とは「神様のものとなっている人々(LB)」のことだ。「踊れ(新共)」とも言われている。罪を赦される恵みにあずかりながら、不平不満を言ってはならない。喜び楽しむ義務がある。ダビデ自身はまだ困難の中にあることは変わらない。彼は自分の妻たちを凌辱されるようなことを、宣告され、姦淫によって与えられた子を失うという苦しみをも経験しなければならなかった。それでも自分の命を奪われても仕方のないほどの罪を赦されて、自分が今、生かされ、神のものとされていることに感謝して、その恵みを歌う。そして、ダビデは、自分一人の赦された体験を共に礼拝する共同体、神の国の民、教会の皆と共に分かち合いたいのだ。私たちはキリストによって罪赦された者たちの集まりだ。共にその幸いを感謝したい。「心の直ぐな人たち」とは「心が常に主に向けられている人(LB)、神との契約に生きる人、」の事だ。

結び 32:11「正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)