「神の救いと審き」 詩篇18篇1~24節(2015年02月15日)

序 : 長い詩篇なので2階に分けて見る。一節、一節を丁寧に見ると時間がかかりすぎるので、すこしまとめてお話する。表題がある。

「指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った」

これは神の救いを感謝し喜び賛美する詩篇だ。この18篇はほぼ同じ内容が第2サムエル記の22章に記されている。だから、サウル王の支配が終わり、イスラエル12部族全体の王権を確立した時のものとされている。ダビデはそこに至るまで、様々な窮地を乗り越えて、神に救われ続けて来た。今、王権を確立した時に、振り返ってみると、神様がいつも窮地から偉大な力を持って救い出し続けてくださった。そんな回顧と感謝が記されている。

本論1 神への信頼
(1)主のしもべ
もしダビデがこの表題に「主のしもべダビデによる」と記すことを許したとすると、多くの困難をくぐりぬけて王権を樹立した時期に、普通なら王としての権力を誇って高らかに自らの手をあげる場面で、「主のしもべ」としての位置を明らかにし、真の主権者であられる神への賛美と栄光をささげるというところがさすがだということになるし、ダビデはそういう人物だった。

三浦綾子さんが1000万円の小説に当選した時に、夫の光世さんが「今こそ人生最大の危機だ」と言った。「やったー、これで何やろう」と言うのではなく「この恩恵を通して神が何を願っておられるのか」と思えること。神の恩恵が如実に表れた時に、と慎重に自分がしもべでしかないことを肝に銘じることの出来る冷静さ。

 サウルが死んで、ダビデが王位につく。それは朝青龍が引退して白鳳が横綱になるというようなバトンタッチではなかった。お互いが、神の民であるイスラエルに属しながら、それは神による、ダビデの救いとサウルへの裁きだった。いわば教会への裁きだった。救いと裁きは表裏一体だ。神は十字架の上で、キリストに全人類の罪を背負わせて、裁かれた。それは全人類への救いの道を開いた。終わりの日にキリストの再臨を待ち望むクリスチャンが救われるのは、同時に世界が裁かれる時でもある。

(2)神との関係
18:1「彼はこう言った。【主】、わが力。私は、あなたを慕います。」

新共同訳は「彼はこう言った。」までを表題としている。それが良い。

18:1「…【主】、わが力。私は、あなたを慕います。」
ここで「慕います」と言っているが、この「慕う」という言葉は、人間が神に対して使う言葉としては異例な言葉だそうだ。なぜなら、神が人をいつくしむ時に用いられる言葉で、母親が子を愛する愛を表すそうだ。時々、妻を見ながら、感心したり呆れたりする。それは息子たちのことばかり考えたり思ったりしている。「息子いのち」みたいな感じだ。自分の趣味や自分のことをもっと大切にすればよいのにと思ってしまう。それが良いか悪いかは別にして、ダビデは自分のことを忘れるまでに神のことを思っていたのかもしれない、寝ても覚めても思うのは神様のこと、「神様いのち」みたいな。

信仰にも段階がある。神も知らず、反抗していた者が、福音を聞いて、神がいるのかもしれない。そして信じる。神が本当におられたことを知る。神様と親しく交わる。神様を喜び愛するまでになる。恐る恐る、水に足を入れようとする段階から、水につかってみる段階。思い切ってもぐってみる段階もあれば、水を楽しみながら泳ぐ段階の人まで信仰も色々だ。

(3)賛美の先行
そんな神への豊かな信仰と交わりは、多くの困難の中で度々救われると言う経験を通して強められてきた。

18:2「【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」

どんな敵によっても、砕かれることがない。よじ登られて征服されない。剣や、火矢からも守られる力ある方。どれも戦いの中で生まれた表現で、彼の生涯が戦い、戦いの連続であったことが伺える。

18:3の岩波訳が面白い。「『賛美されてあれ、ヤハウェ』と私は呼ぶ。するとわが敵どもから私は救われる。」困難の中で、神の勝利を信じて、まず神をほめたたえると救いがやってくると言うわけだ。

ヨシャパテの戦いを思い出す。おびただしい大軍が、攻めて来た時、彼はただ神に目を注いだ。聖なる飾り物を着けた聖歌隊が兵士の前に出て「【主】に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と喜び、賛美の声をあげると、するとその時、【主】は伏兵を設けて、彼らを打ち負かされた。(Ⅱ歴代20:1~29) 神への信頼と感謝と讃美が先立つ。「契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川の水はせきをなして、何十万というイスラエルの民がヨルダン川を渡った。 (ヨシ3:15~17)」「百人隊長は『主よ。…ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』(マタ 8:5~13)」と言ったその信頼だ。

神様としても疑われながら近寄られれば「もう少し苦しみなさい。」と言うことになるかもしれないが、純朴に、頼まれ、信頼されて、感謝と讃美を捧げられたら、その真実に答えざるを得ないのかもしれない。ご自分の御名がほめたたえられるために救ってくださると言うことがあるのではないだろうか。

本論2 歴史を貫く神の救い
(1)敵の攻撃
18:4 死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
18:5 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
神様との親しい関係にある人が危険や苦しみに会わないかというとそうではない。ダビデしかり、パウロしかりだ。むしろかえって困難が多い。病気病気の人生を歩まれた三浦綾子さんが「私は神にえこひいきされている」と言った言葉も思い出す。しかも悪魔の手段は手を変え、品を変えてやってくる。「わな」と言う言葉は「疑似餌」などの「えさ」とも説明される。去年「疑似餌」のルアーで釣りをしたが、魚にしてみたら、おいしそうに泳ぐ小魚が食べてみたらのどに突き刺さって自分が食べられてしまうんだからたまらない。「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、その木はいかにも好ましかったのでアダムはその実を食べてしまった(創3:6)」。ここの表現は罠にかかってもがく動物のようだ。敵の攻撃にはあからさまのものもあれば、巧妙な罠もある。そういう中で、最終的には死の罠に絡みつかれ、締め付けられている。濁流に飲み込まれそうな体験をする。神様としたら溺れた人を助ける人がぐったりするのを待つようなこともあるかもしれない。そこまでいかなければ、自分の力で助かろうと必死にもがくから。万策尽き果てて、もうだめだと降参して大水の中で助けを求める。その叫びの中で主が答えてくださるのだ。
 
(2)神への祈り
18:6「私は苦しみの中に【主】を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」

100万の署名を集めることも、時には大切だが、神はたった一人の切なる祈りを聞いて答えることがお出来になる方だ。

「(詩17:6)神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。」とあった。

イエス様は塔を立てるには、十分なお金がない人の例えを話されました。二万人の敵に対して一万人では迎え撃てないので講和を求める話をされた。私たちは自分の力では出来ないことを知るべきだ。最後の最後まであがきにあがかずに、降参して神に助けを求めるのだ。17節にあるように、敵は私達よりも強いのだ。だから神様に戦っていただくしか方法がない。ゴリアテに少年ダビデがどうして勝てたのか。多数のサウルの追っ手をどのように逃れたのか、ダビデは神への信頼だけで勝負してきたのだ。悪魔は私達よりも強いが、悪魔に勝利されたイエス様が私たちと共におられる。このキリストの愛から私たちを引き離せる者はない。神が私たちの味方であるなら、誰も私たちに敵対出来ない。

(3)一人の人との約束
19節で、ダビデは「神様が自分を喜んでいてくださる。だから、広いところに連れ出して、私を助け出してくださった」と言っている。神が喜ばれる。それは心強いことだ。神様は全ての人を愛している。しかし、愛していても、喜んでいるとは限らない。親が、悲しみながら愛する子供もあれば喜びながら愛する子どももいるように。神が喜ぶ人がいる。私たちも神に喜んでいただけるような人になりたい。どういう子どもが親に喜ばれるか。それは親の気持ちを良く知っていて、その親の気持ちに従順である子だろう。父なる神が最も喜ばれたのはイエス様だ。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と洗礼の時に天から声があった。子供の身分は持っていても、親に不従順であれば、愛されて いても喜ばれる子どもにはなれない。

 神様は喜ぶ人と契約を結んでおられると思う。神様はアブラハムと契約を結ばれた。神の民として永遠の祝福はアブラハムと言う一人の人との約束による。神様はダビデと契約を結ばれた。Ⅱ列王8:19に「【主】は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。」とある。神はひとりの人ダビデを喜ばれたので、ユダを滅ぼさないと約束し、ダビデの王国を確立されたのだ。神様は1人の人との約束を歴史の中で守られる。私たちの救いは、たった一人の人、イエス様と父なる神との約束によっている。

 私たちは全く自分の中にある何かによるのではなく、このイエス様の従順をご覧になった父なる神様が、それを喜ばれて、そのイエス様のゆえに私たちを救ってくださる。あなたがそれほどまでに私に従順を尽くしてくれるなら、私は喜ばしいあなたのゆえにかけらを救おうと。18:20~24節までは、ダビデが自分の正しさを訴えているように思えるが、それは道徳的に正しさと言うことではなく、神に信頼する事、「信仰による義」と言える。

本論3 神の素晴らしい救いの業
(1)今働かれる神
7節から15節までには天変地異を連想するような、神の裁きと救いが描かれている。

 実際にダビデが天変地異のような被造物の大変動によって助けられた経験をしたと言うのではなく、彼はイスラエルが経験した歴史を重ねていると思われる。

「(18:15)水の底が現れ、地の基があらわにされた」という言葉は紅海が分かれてイスラエルの民たちがモーセによってエジプトの奴隷状態から救われたこと、イスラエルを苦しめたエジプトが裁かれた出来事を思い浮かべていると思う。

また7節から9節までは、エジプトを脱出の後、荒野で、神ご自身が降りて来られ、十戒を授けた時のことを思い浮かべていると思う。その時、「【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたので、シナイ山は全山が煙って激しく震え、煙は、かまどのように立ち上った。 (出19:18)」とある。

ダビデは自分がピンチの連続の中で神様からのあまりにも偉大で不思議な救いの御業を度々、体験する中で、モーセを通して働かれた偉大な主の御業が、この私にも、同じ威力をもって臨まれたのだと告白しているのだ。それは私たちとて同じだ。私たちの日常は、ダビデにまさる劇的なものではないかもしれない。しかし、それでも襲いかかる試練、戦いはある。同じ悪魔が働いているから。しかし、同時に、モーセやダビデを救い出された主もまた、今、生きておられる。そして、私たちもまた、聖書に記されている神の御力の記録は決して過去のものではなく、今日の私たちへのものだということを経験するのだ。

(2)神の愛する子
18:11に「主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。」

と言う言葉がある。9節にも「暗闇をその足の下にして」と言う言葉がある。Ⅰ列王8:12に「主は、暗やみの中に住む」と言う言葉がある。私達人間には見ることが許されていないと言う意味だと思う。人間にはわからない、わかりきれない。その顔を直接見ることは出来ない。その声を聞くことは出来ない。(聞いた者もいるが)。しかし、存在しておられる。その闇を突き抜けて、そのご意志を表される。実際の声は聞こえなくても、その力は万物に表わされる。特にここでは神が愛する者を苦しめる敵への怒りが記されている。

18:12 御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。

ダビデを助ける、そのすさまじさ。それはあたかも神ご自身に逆らう者への裁きのようなすさまじさだ。息子が中学生の頃、放置自転車を回収して売っている知人から自転車を買ったのだが、それを息子が乗っていた時に、パトカーからマイクで呼びかけられた。後で息子からことの次第を聞いた家内がぶちぎれて、警察署に電話し「生活安全課の人を出しなさい」ついに平謝りに謝らせたということがあった。モンスター、ペアレント。「愛する息子に何かしたら放っておかないから」

「わざわいの日」ダビデが弱り切った時に敵は総攻撃を仕掛けてきた。神が愛するダビデへの攻撃が、まるで神への攻撃かのように。神が怒る。警察の人も家内を怖いと思ったと思うのだが、神が愛する人、神に近い人をいじめたり、悪口を言ったりしないよう、本当に気を付けなければならない。慎まなければ神からの怒りを受けることになると思う。キリストこそ、神に愛された「私はこれを喜ぶ」と言われた御子だ。この御子の十字架を決してないがしろにしないように気をつけたい。

(3)新しい生き方
9節での「天を押し曲げて降りて来られる」というのは、神は、裁きにおいて慎重であることを表している。神はソドムとゴモラを滅ぼされる時も、み使いによって調査された。神の願いは救われることだからだ。神が忍耐なく、すぐに怒る方であれば、もう世界は終わっていただろう。「なぜ、悪をすぐにでも裁かれないのですか」と私たちは思うかもしれない。しかし、その時、私たちは自分もかつては滅ぶべきものであったことを忘れている。神の忍耐によってこの私も救われた。ロマ9:22「…もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」とのパウロの言葉が思い出される。神の忍耐と愛がどれほどなのか。それは、神の顕現がこのような雷雲ではなく、赤子としてベツレヘムに生れるという形を取られたことからも伺える。神は全ての人の罪への怒りを身代わりにご自分の御子の上に追わせ十字架の上に注がれた
10節には速やかな神の救いの業が記されているが、最終的な救いの完成は、速やかにやって来るようには中々思えない。救いの完成はこの世界の全ての不従順への裁きの時となる。麦と共に独麦が畑に生えているのに、収穫の時まで、そのままにされている。

 前回、この世界を、悪魔が支配する、失望と悲しみの世界としてではなく、神の支配とする、望みと喜びの世界なのだということを人生を通して生きて贈り物とすると言う内村の言葉を紹介した。彼は「その遺物は誰にでも出来る遺物」と言ったが、そうならそれを是非自分の物にしたいものだ。

結び  確かにこの世界が神のものだからこそ、それが悪に汚れているのを神はそのままに放っておくことが出来ないのだ。神ご自身がこの世界が神の物だと言うことを明確にしなければならない。そのことのゆえに、今、生きておられる神が、ご自分の民の救いの完成をこの世界においてこの世界を新しくなさると言うことにおいて果たされる。その時、この世界の全ての罪はこの世界と共に滅ぼされる。被造物のすべては人間のために創造されたのだから。この世界が神のものだと言うことを私たちは自分の生涯において実行する。確かにこの内村の言葉は私たちの言葉となるべきものだ。キリストの十字架はこの世界に立てられた。神がこの世界をキリストの血の代価で買い戻された。十字架によつて 万物が贖われた。この世を神の物として生きる。これが私たちの生きる出発点だ。

※注  参考資料: 「詩篇講録」小畑進 いのちのことば社 「詩篇を味わう」鍋谷堯爾 いのちのことば社 「ダビデの宝庫」CHスポルジョン いのちのことば社  詩篇の霊的思想BFバックストン 関西聖書神学校出版部  聖書注解全集 第5巻 内村鑑三 教文館  「詩篇」旧約聖書講解シリーズ富井悠夫 いのちのことば社  「新聖書注解」小林和夫いのちのことば社  「実用聖書注解」富井悠夫 いのちのことば社  「旧約の霊想」WGムーアヘッド いのちのことば社 「聖書注解」キリスト者学生会  「旧約聖書の思想と概説」西満 いのちのことば社  「笹尾鉄三郎全集第2巻」福音宣教会 旧約聖書入門 三浦綾子 その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)